最寄り駅であるJR福知山線黒井駅から黒井城の登山口までは約10分と、アクセスもよい。だが登山口から主郭までは滑りやすい山道を約40分も登らなければならないため、なかなかの体力を要する。黒井城下にある興禅寺は利三の屋敷跡である。ここで利三の娘の福(ふく=後の春日局)が生まれている。山城を登る自信のない人は、戦国期の館(やかた)の風情が堪能できる興禅寺を見学するだけでも楽しめる。

 次に訪れたいのが、丹波を平定後に光秀が整備した福知山城だ。ここであげる八つの城では唯一、復元天守が建てられている。天守などの石垣には古い墓石や灯籠などの転用石が多く用いられ、石垣を丹念に見て回るのも一興だ。

 現在の城下町は、光秀の時代に整備されたもの。小和田氏によると、光秀は城下を洪水から守るため治水を行い、福知山を流れる由良川に堤防を整備するなど善政を敷き、領民に慕われていたという。地元・福知山市では、現在でも多くの人が光秀をたたえている。

 光秀が丹波平定の拠点として、1578年に築城した亀山城城下でも、名君として慕われていたという。

「亀山城は口丹波(くちたんば)と呼ばれる京への入り口に築城され、当時、丹波で最も重要な城として位置づけられていました」(小和田氏)

 要衝の地に築城させたということは、よほど信長は光秀を信頼していたのだろう。しかし光秀は信長の信頼を裏切り、この城から約20キロ先にある、本能寺を目指した。

 そして最後に訪れたい城が、勝龍寺(しょうりゅうじ)城である。本能寺の変の11日後に起こった山崎の戦いで、光秀は羽柴秀吉軍に備えるため勝龍寺城を占拠し、近くに本陣を構えた。小和田氏によると、「西国街道を押さえる要衝に築かれ、平城(ひらじろ)ながら川の合流点に築いて防御を高めている堅城」という。

 しかし円明寺川周辺で行われた、山崎の戦いの本戦に敗れた光秀は、勝龍寺城での籠城を諦めると坂本城を目指して敗走。その途中、落ち武者狩りに襲われ、深手を負い自刃したといわれる。

 光秀が、本能寺の変を起こしたことは歴史的事実だが、その動機は依然として不明のままである。なぜ、信長を討ったのか。光秀ゆかりの八つの城を巡りながら、その心情に思いを馳せた。(ライター・湯原浩司)

AERA 2020年4月6日号