恐山に“死者”を求めて 院代の南直哉さんに聞く (2/4) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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恐山に“死者”を求めて 院代の南直哉さんに聞く

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野村昌二AERA
恐山菩提寺の境内。硫黄臭が立ち込め、地獄に見たてられる荒々しい岩場。この風景が私たちの魂を静かに、しかし、強烈に揺さぶるのだ(撮影/写真部・岸本絢)

恐山菩提寺の境内。硫黄臭が立ち込め、地獄に見たてられる荒々しい岩場。この風景が私たちの魂を静かに、しかし、強烈に揺さぶるのだ(撮影/写真部・岸本絢)

死者の名前を記した手ぬぐいと草鞋。手ぬぐいは、あの世を旅する死者に汗をぬぐってもらうために供えられている(撮影/写真部・岸本絢)

死者の名前を記した手ぬぐいと草鞋。手ぬぐいは、あの世を旅する死者に汗をぬぐってもらうために供えられている(撮影/写真部・岸本絢)

俗世と霊界を隔てる三途の川と太鼓橋。この橋の脇を通り過ぎると、人間の信仰心が作り上げた世界が広がる(撮影/写真部・岸本絢)

俗世と霊界を隔てる三途の川と太鼓橋。この橋の脇を通り過ぎると、人間の信仰心が作り上げた世界が広がる(撮影/写真部・岸本絢)

宇曽利湖を背にして立つ、恐山菩提寺の院代(住職代理)の南直哉さん。福井県の曹洞宗大本山・永平寺で約20年間修行を積み、2005年から恐山に(撮影/写真部・岸本絢)

宇曽利湖を背にして立つ、恐山菩提寺の院代(住職代理)の南直哉さん。福井県の曹洞宗大本山・永平寺で約20年間修行を積み、2005年から恐山に(撮影/写真部・岸本絢)

 リアルな経験というのは、否応なく人間の考え方や行動パターンを変えます。例えば、恐山には90歳を過ぎたおばあさんが、遠く四国からはるばる自分の水子供養のために車いすでやって来ます。それこそ命がけ。なぜそこまでして来るのか。死者が実在するからです。もちろんその姿は目には見えず、触ることもできません。しかし「いる」のです。そこまでのことを人にさせてしまうのは、この恐山に何かがあるからです。だけど、それが何かはわかりません。

●マイナスのパワスポ

──なぜ、死者と会う場所が恐山でなければならないのですか。

 昔は、自宅で生まれ、老いて死んでいった。死者を受け入れる場所はもっと身近にありました。ところが、今の市場経済社会では、一番偉いのは大量に生産して消費する人。そうなると、生産も消費もしない死者、生産と消費を妨げる死は、置き所がなくなってしまったのです。しかし、死者に対する感情は決して消えることはありません。その感情を受け取る装置として、恐山は存在するのです。

──恐山を「パワースポット」と呼ぶ人がいます。

 そこに行けば元気をもらえたり癒やされたり、何かご利益を得られる場所が「パワースポット」だとすれば、恐山は全く逆です。1200年もの間、恐山が霊場としてあり続けるのは、パワーがあるからではありません。力も意味も「ない」から霊場なのです。あえて言えば、風呂の底の栓を抜いたら水が吸い込まれていくような、マイナスのパワーがそこに「ある」と言えるかもしれません。その上に何が乗っかろうとも、最終的に恐山という場所がのみ込んでしまう。そういうとてつもない吸引力が、恐山という場所。その意味で私は、恐山を「パワーレススポット」と呼んでいます。

──恐山における仏教の役割は何ですか。

「器」です。お茶を飲む時に器がいるように、人々の死者への思いをくみ上げるのに、器として機能したのが仏教だったのです。すなわち、仏教という器があるからこそ、そこに入っているもののにおいや味、形がわかり、自分の感情が感情として理解できるのです。そのためにも、恐山では仏教は器に徹することが求められます。

●墓参りで処理しきれず

──では、恐山における僧侶の役割は何でしょう。

 余計なことをしない、こちらから何か強いアプローチをしないことです。少なくとも私はそう思っています。


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