リアルな経験というのは、否応なく人間の考え方や行動パターンを変えます。例えば、恐山には90歳を過ぎたおばあさんが、遠く四国からはるばる自分の水子供養のために車いすでやって来ます。それこそ命がけ。なぜそこまでして来るのか。死者が実在するからです。もちろんその姿は目には見えず、触ることもできません。しかし「いる」のです。そこまでのことを人にさせてしまうのは、この恐山に何かがあるからです。だけど、それが何かはわかりません。

●マイナスのパワスポ

──なぜ、死者と会う場所が恐山でなければならないのですか。

 昔は、自宅で生まれ、老いて死んでいった。死者を受け入れる場所はもっと身近にありました。ところが、今の市場経済社会では、一番偉いのは大量に生産して消費する人。そうなると、生産も消費もしない死者、生産と消費を妨げる死は、置き所がなくなってしまったのです。しかし、死者に対する感情は決して消えることはありません。その感情を受け取る装置として、恐山は存在するのです。

──恐山を「パワースポット」と呼ぶ人がいます。

 そこに行けば元気をもらえたり癒やされたり、何かご利益を得られる場所が「パワースポット」だとすれば、恐山は全く逆です。1200年もの間、恐山が霊場としてあり続けるのは、パワーがあるからではありません。力も意味も「ない」から霊場なのです。あえて言えば、風呂の底の栓を抜いたら水が吸い込まれていくような、マイナスのパワーがそこに「ある」と言えるかもしれません。その上に何が乗っかろうとも、最終的に恐山という場所がのみ込んでしまう。そういうとてつもない吸引力が、恐山という場所。その意味で私は、恐山を「パワーレススポット」と呼んでいます。

──恐山における仏教の役割は何ですか。

「器」です。お茶を飲む時に器がいるように、人々の死者への思いをくみ上げるのに、器として機能したのが仏教だったのです。すなわち、仏教という器があるからこそ、そこに入っているもののにおいや味、形がわかり、自分の感情が感情として理解できるのです。そのためにも、恐山では仏教は器に徹することが求められます。

●墓参りで処理しきれず

──では、恐山における僧侶の役割は何でしょう。

 余計なことをしない、こちらから何か強いアプローチをしないことです。少なくとも私はそう思っています。

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