西岡京治
西岡京治
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 安倍晋三元首相の国葬は1967年にあった吉田茂元首相以来、戦後2例目だ。一方、異国の地でその功績がたたえられ、国の音頭で弔われた日本の“偉人”たちがいる。

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 オランダ・ハーグに本部があった国際連盟の常設国際司法裁判所で、アジア系として初の所長を務めた安達峰一郎(1869~1934)は世界平和への貢献を称賛され、オランダ政府から国葬の礼で弔われた。

 山形県で教壇に立つ父のもとに生まれ、国際法を学ぶために上京。東京帝国大学仏法科を卒業後に外務省に入り、豊富な国際法の知識と巧みなフランス語を駆使して激動の時代に外交官として活躍した。その外交センスは、交流のあった新渡戸稲造が「安達の舌は国宝だ」と絶賛するほどだった。

 第1次世界大戦後の29年、ハーグ対独賠償会議で英仏が対立した際には、日本流の茶会に両国の代表を招いて和解させた逸話もある。厚い信頼を得た安達は31年、常設国際司法裁判所長に就く。だがこの年に満州事変が勃発し、日本は安達の理想とは真逆の道を進む。母国の行く末を病床で案じながら世を去った。

近藤恒子
近藤恒子

「マダム・ヤパンカ」と現地で親しみを込めて呼ばれた看護師の近藤恒子(1893~1963)は、旧ユーゴスラビアで国葬となった。

 岐阜県に生まれ、12歳のとき、建築家の父に連れられ日露戦争が終結した中国・北京に家族で移り住む。第1次大戦中、独領青島で捕虜となって北京に移送されていたユーゴスラビア出身の軍人イワン・スクシェクを看護し、恋に落ちた。

 周囲の反対を押し切り、結婚して夫の故郷ユーゴへ移住。第2次大戦中も看護師として活躍した。戦後に夫が亡くなってからも現地にとどまり、テレビやラジオを通じて日本文化の振興に貢献し、62年には赤十字最高勲章を受章している。

 当時の報道によると、近藤の葬儀は政府文化委員会葬として盛大に営まれ、500人以上の市民が参列したという。

 近藤の死から1年後、大阪府立大農学部の修士課程を終えたばかりの青年が海外技術協力事業団(現JICA)の一員としてブータンへ派遣された。後に「農業の父」と尊敬を集めた西岡京治(けいじ、1933~92)だ。

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