かつて寅さん映画ではスクリーンに向かって、観客が「寅、頑張れ!」と声をかけることもあった。失恋を繰り返し、家族には迷惑をかけ、再び旅に出る寅さん。

「人間の駄目な部分、滑稽な部分を、観客は見ていて共感できるのです。『ああ、俺も寅さんと同じだな』と思うのです。笑いながら自分の愚かな部分を許すのです」

 話を聞きながら、大阪の映画館での出来事を思い出した。「グズグズせんと、いてまえ」。美しいマドンナを前に、何もできない寅さんに向かって叫ぶ酔客。別の客が「アホ、寅はそういうことはせんのや。それが寅のええとこやないか」。場内、大爆笑に包まれたという話である。

 たしかに、いまの映画館でそんなことが起きることはなくなった。

「でもこの国全体がそうですよ。なるべくおとなしくしろ、と。大声で叫ぶこともない。言うことをよく聞く国民になりつつあるのではないか。若者もおとなしい。顔をつきあわせて議論をしたり喜び合ったりするのが人間の社会なのに……」

 監督に会うのは前作「お帰り 寅さん」の公開以来、約1年半ぶりだが、山田組のスタッフルームは笑いが絶えない。リアルな寅さんを知らない平成生まれの若い人もどんどん増えている。

 イタリアの塗装職人が言った言葉を山田監督は引いた。

「陽気にならないと、人はいい仕事ができないぞ」

 そういえば、なぜいま、喜劇なのか。監督に尋ねたことがある。こんな答えが返ってきた。

「未来に暗雲が垂れ込めた時代だからこそ喜劇です。心から笑って『ああ、人生は捨てたものじゃないんだ。頑張って生きていこう』という思いを抱いて、観客が劇場をあとにするような映画を作りたい。それは昔からの僕の夢です」

 その思いは変わっていないだろう。来月で90歳。今も大好きな蒸気機関車のように、力強く走り続ける。(朝日新聞編集委員・小泉信一)

週刊朝日  2021年8月20‐27日号