「でもいざ役者として現場に行ったら、稚拙な言い方をするとすごくラクになったんです。プロデュースや演出は、外へ外へと彩りをつけていく仕事。でも俳優は自分の中へ中へと個を掘っていく作業です。こんな楽しいことを、いままでしていたんだ!と改めて思いました」

 俳優の出発点は、7歳上の兄だったかもしれない。東京は新宿・歌舞伎町の生まれ。旅館や焼き鳥屋を営む両親のもと、3人きょうだいの末っ子として育った。幼い頃は気弱で引っ込み思案。心配した両親に劇団に入れられ、兄の影響で映画や音楽に触れた。

「いまも大好きなブラック・ミュージック、ジェームス・ブラウンにジャニス・ジョプリン、映画『イージー・ライダー』……全部兄貴に教わりました。夜、2段ベッドの上で兄貴が小さなテレビで『傷だらけの天使』や『11PM』を見ている気配がして、それがすごくうらやましかった」

 15歳で俳優になろう、と決め、16歳で映画、17歳で大河ドラマに出演。アメリカ映画への憧れから24歳でオーストラリアに短期留学。高倉健が出演するハリウッド映画「ミスター・ベースボール」にも参加するなど、キャリアを積んだ。

 それでも自分が役者だと自覚できるようになったのは30歳近くになってからだ。簡単な道のりではなかったが、ほかの道は考えたことがなかった。

「それに打ち込めて、継続することも才能。そう思うしかないですよね。監督に怒られて凹(へこ)んだこともたくさんありますよ。『自分はこういう解釈をしているから、もう一回やらせてください!』と粘って嫌がられたこともある。いま考えるとただ生意気だったなあと(笑)」

(文・中村千晶)

豊原功補(とよはら・こうすけ)/1965年、東京都生まれ。82年から俳優活動を始め、青山真治監督「WiLd LIFe」(97年)、阪本順治監督「亡国のイージス」(2005年)など数々の映画、ドラマに出演。07年、和田秀樹監督の「受験のシンデレラ」で第5回モナコ国際映画祭最優秀男優賞を受賞。17年舞台「芝居噺『名人長二』」で、企画/脚本/演出/主演を果たし、以降「またここか」(18年)、「芝居噺弐席目『後家安とその妹』」(19年)と発表を続ける。18年「新世界合同会社」を設立し、外山文治監督の映画「ソワレ」を初プロデュースした

>>【後編/「いろいろと逆」の小泉今日子と“共鳴”した理由 豊原功補が明かす】へ続く

週刊朝日  2020年9月11日号より抜粋