97歳の瀬戸内寂聴に「遺書を早く書いて」と迫る人たち

2019/09/09 08:00

 九十七歳の私の経験した暑さは、その旅が最高でしたけれど、今年の京都の夏は、それ以上に感じます。

 子供の時は、夏はすっ裸になって、たらいの中に冷い井戸水を張って、しゃぶしゃぶしていたものです。夕方の行水は、同じたらいに湯を張って、姉と二人で浴びました。行水のあとは、天花粉で、真白になった体に糊のきいた浴衣を着せられ、姉は黄色、私は赤の三尺帯をふさふさお尻にゆらして、夜店をのぞくのが、最高の愉しみでした。並んだ屋台のアセチレンの灯の色と匂い…今想い出しても、胸がきゅっとします。九十何年も、昔、昔の夏の想い出です。

 早く遺言を書いてくれと、うちの会計士と、七十すぎたひとり娘が、しきりに迫ります。

 ヨコオさんはもう書いた? きっと、まだに決っている。ヨコオ夫人も超のん気屋さんだしね。でも、ヨコオさんは世界的な値打のある絵の作品が凄い財産だから大変よね。人ごと乍ら、案じられますよ。

 私は遺言を書かなければ、こわれたペンまで一人娘の理子のものです。もし、遺言を書けば、これを××会に、これを○○会にと書きつづけ、何もなくなってしまうかも……。文士の遺言の実物を私は見たことがあります。吉行淳之介さんのもので、いつも使用の原稿用紙一枚に、御本人の達筆の万年筆の字で、のびのび書いてありました。

 すべての動産、不動産は夫人に。

 文筆の権利は、すべて宮城まり子さんに。

 というものでした。それをこっそり見せてくれたまり子ちゃんの満足そうな笑顔を忘れられません。

 あ、また今夜も遺言は書き損ね。じゃ、またね、お休み。

週刊朝日  2019年9月13日号

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