強烈に印象に残っているのは、三味線を弾きながら歌う武下和平さんと男装で歌う石原久子さん。

「お2人の歌を初めて生で聴いたときのことは、今もはっきりと覚えています。姿も目に焼き付いています。町まで聴きに出かけて、これが武下さんなんだ! とその歌のすごさにびっくりしました。私はシマ唄の神様と言われている武下さんの音楽を聴いて育ったんですよ。幼いころ、母は機織りをしながらずっと武下さんのレコードをかけていました。そして、夕方の5時になると、隣に住む高校生のお兄ちゃんが三味線を弾き始めます。仕事から戻る家族を迎えるためです。夜も大人が晩酌をする部屋でずっと弾いていました。そのお兄ちゃんは武下さんから三味線を習って、完璧にコピーしていたんです。武下さんも石原さんも私が子どものころから年齢不詳。今もお元気です。姿もまったくお変わりない。石原さんには、不老不死のキノコを食べているといううわさもあるほどです(笑)」

 三味線は隣の家の高校生のお兄ちゃんに教わった。

「お兄ちゃんが三味線を触らせてくれて、興味を持つようになりました。うちにもボロボロの三味線があり、手入れをして、朝から晩まで弾くようになったんです。やがて町に習いに行き始めると、私はずば抜けてうまくなりました。練習量が圧倒的に多かったからです。奄美の島の中心部で暮らしている子たちは、学校の部活や娯楽がたくさんあるから、あまり三味線に触りません。でも、私の集落は何もないので、ずっと練習していたんですよ。演奏すると、うちのおじいちゃんもおばあちゃんもとても喜んでくれたので、それがすごく励みになりました。私が一日中三味線を鳴らしているので、お姉ちゃんが三味線ノイローゼになっちゃったほどです。お姉ちゃんの受験のときには、家族の判断で、私はついにおばあちゃんの家に引っ越しさせられました。それでも、私はおばあちゃんの家で弾き続けた。家と家はあまり離れていないので、勉強しているお姉ちゃんのところまで演奏の音は届きます。すごく嫌がられましたね」

 やがて、母親に三味線の大会出場を勧められた。

「賞を獲れば人生のピンチで役に立つから、と言われました。母親の言う通り、あれから毎年賞をいただけたことが、その後の心の支えになっています。ただ、実は高校2年生のときに1度、鹿児島県の予選で落ちて本選に進めませんでした。友達と遊ぶ楽しさを知ってしまい、練習を怠っていたんです」

 そこからもう一度本気になった。一気にギアを入れた。

「高校3年生の大会で最高の賞に選ばれなかったらシマ唄を辞める。その覚悟で三味線を練習しました。あの1年間は特別でした。練習がつらいとは1度も思わなかったし、自分がどんなにシマ唄が好きか、よくわかったからです」

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シマ唄で原点に立ち返る