帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「死を生きる」(朝日新聞出版)など多数の著書がある
帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「死を生きる」(朝日新聞出版)など多数の著書がある
死に対する覚悟を深めていくことがボケの予防(※写真はイメージ)
死に対する覚悟を深めていくことがボケの予防(※写真はイメージ)

 西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。死ぬまでボケない「健脳」養生法を説く。今回のテーマは「死後の世界」。

*  *  *

【ポイント】
(1)一人称(自分)の死は実は存在しない
(2)死後の世界があるものとして死を考える
(3)あの世で再会できる人を思い浮かべる

 前回、死を見つめ、死に対する覚悟を深めていくことがボケの予防につながると書きました。死を見つめれば見つめるほど気になるのが、死んだ後はどうなるのかということです。それによって、死に対する覚悟も変わってくるでしょう。

 その死後の世界について、まだご健在だった落語家の立川談志さんに聞いたことがあります。

「そうよなぁ。誰も帰(けえ)って来た奴はいねえからなぁ……余程、好いところなんだろう」

 というのが答えでした。言い得て妙というのはこのことです。いくら思案しても、これ以上の答えは出てきません。あの世に行ってしまわれた談志さんにどうでしたかと聞いてみたいものですけれど。

 解剖学者で『死の壁』(新潮新書)の著書がある養老孟司さんは死についてもっと、はっきりした考えを述べられました。死には一人称(自分)の死と二人称(他人)の死があって、一人称の死は、みんなあると思っているけれど、実はないのだというのです。その死は出現した瞬間、それを問題とする自分はいないのだから、自分にとってそんなものは存在していないのだというのです。

 なるほど、と思います。自分にとって自分の死は存在しないのであれば、それについて考えても意味がありません。死について考えて意味があるのは、死後の世界がある場合だけになります。

 ですから私は、死後のことは誰もわからないけれど、死後の世界があるものとして考えることにしています。そう考えると、都合がいいのです。

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帯津良一

帯津良一

帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など著書多数。本誌連載をまとめた「ボケないヒント」(祥伝社黄金文庫)が発売中

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