東京・新宿にあった赤線地区の夜=1949年
東京・新宿にあった赤線地区の夜=1949年
大阪府内の青線地帯では警察による一斉手入れがあった=1956年
大阪府内の青線地帯では警察による一斉手入れがあった=1956年
東京の上野公園には、午後6時から翌朝午前6時まで立ち入りを禁止する立て札が立てられた=1948年
東京の上野公園には、午後6時から翌朝午前6時まで立ち入りを禁止する立て札が立てられた=1948年

 社会風俗・民俗、放浪芸に造詣が深い、小泉信一・朝日新聞編集委員が、正統な歴史書に出てこない昭和史を大衆の視点からひもとく。今回は「赤、青、白、黒線」。「色街」といっても、いろんな色がありました。

【写真】警察による一斉手入れの様子はこちら

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 以前、本欄でも紹介したが、復習の意味も込めて「赤線」の定義から始めたい。原点は終戦直後。大衆のガス抜きの目的もあり、娼婦を集める必要性を半ば感じた日本政府はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の了承を取り付け、“公娼”地帯を定めることになった。その俗称が赤線である。旧遊郭と重なる場所がほとんどだったという。地図上で営業許可区域を赤い線で囲ったことが命名の由来になったと言われているが、確証はない。

 表向きは一般の飲食店の営業許可を受けているが、別室を設けて「娼売」した店もあった。青線である。そこで行われている内容は赤線と同じ。桃色でも緑色でもいいと思うが、なぜか青になった。

「ダンナ、いかがですか」「いい娘、紹介しますよ」。そんな調子で声をかける「客引き」(通称・ポン引き)も路上を流していた。赤線にしろ青線にしろ、「男と女の自由意思による行為」が大前提だった。

「『白線』というのもあったんですよ。シロセンではなく、パイセンと呼んだんです」

 そう教えてくれたのは遊郭街・吉原で暮らしていた伝説の風俗ライター吉村平吉さんだった。氏の説明によると、場所は飲食店なのだが、従業員が個人的に営業活動する。そんな店が集積した「素人色の強い私娼街」のことを指すという。うーん。ややこしいなあ。

 街という形態でなく、あてもなくさまよって路上で娼売する人たちも「パイセン」に含まれていたようである。家賃も光熱費も水道代もかからない究極の商売。眉と口紅を強調した厚化粧で夜の街に出る。

「悲しいとか、情けないとか、そんな人間らしい感情は消えたわよ」──女が啖呵を切る様子が目に浮かぶ。

 その聖地が東京の上野だった。一種の暗喩的な意味も込めて言葉をひっくり返し、「ノガミ」と呼ばれた。特に上野公園の周辺がすごかったらしい。西郷さんの銅像が立つ「お山」を中心に数百人が出没した。

 その中には「マッチ売り」と呼ばれる女性もいた。木立の陰でマッチが燃え尽きるまで股間を鑑賞させる商売だった。

 園内の植え込みや共同便所の中を好んだのは俗称「カキ屋」と呼ばれた人たちだ。主に指と手のひらの商売である。客の年齢層は比較的高く、社会的地位が高い人もいたという。

 カキ屋の中には男性もいた。警視庁が「カリコミ(刈り込み)」をする。要するに摘発だ。警察官が懐中電灯で便所の入り口辺りを照らし出すと、数人の男たちがクモの子を散らすようにパーッと逃げ出る。上野公園を「上野ジャングル」と呼んだ作家・坂口安吾は著書『安吾巷談』でそのあたりのやりとりを巧みに描写している。

〈一瞬にして八方へ散る。ヨレヨレの国民服みたいなものをきた五十すぎのジイサン。三十五六の兵隊風の男。等々。いずれも街頭でクツをみがいているような人たちだが、共同便所の暗闇の中で、泥グツをみがくにふさわしい彼らの手で、一物をみがいてもらう趣味家はどんな人々なのか、まるで想像もつかない〉

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