そんな球歴と実績を持つ野球エリートの石山が、母校でもなければ縁もゆかりもない、しかも失礼ながら山あいの田舎の学校の野球部にどう考えてみても来るはずがなかろう。だいたい小鹿野高校野球部は万年1回戦コールド負けのチームなのだから。

 斉藤には石山にこだわる確かな理由があった。斉藤の長男が通う埼玉・狭山ケ丘高校野球部で外部コーチとして指導する石山と面識があった。長男は石山の短期間の指導で見違えるほどの打球を飛ばすようになり、そのバッティングを目の当たりにした斉藤は「いつか小鹿野でも」と石山の存在を片時も忘れずにいた。そんな“石山伝説”を斉藤から耳にした渡辺は、無謀ともとられかねない行動に出た。

 その日、渡辺は、石山が埼玉県の県営大宮球場のバックネット裏で高校野球を観戦しているはずだ、との情報を頼りにアポなしであいさつに向かった。渡辺はプロのスカウトらと歓談中の石山を見つけるや、いきなり名刺を差し出し、

「小鹿野高校野球部に力を貸してほしい」

 と頭を下げた。

 後日あらためて校長と説明に行く約束を取り付けたが、その間、石山の元には中日巨人で活躍した中尾孝義があいさつに来たり、野球評論家の広岡達朗や前出の宮本らから携帯電話に連絡が入ったりと、“山ッ子”を自称する渡辺は面食らうばかりだったが、「実現すれば」と内心期待を膨らませ、思わずほくそ笑んでいた。

 後日、交渉に臨んだ高橋校長と渡辺は、小鹿野再生に向けた切実な思いを真正面から石山にぶつけた。

「このままだと廃校になりかねない。石山さんの力で野球部を強くしてほしい」

 石山にさして迷いはなかった。そもそも“廃校阻止と町おこし”を大義とした指導の依頼など初めてのことだ。新しい挑戦であり、やりがいを感じ、もはや受けることにためらいはなかったという。

「日の当たらない子供たちを舞台に上げたい。今さら自ら進んで日の当たるところに上がるつもりもない。ただし、校長、いいチームを作るのには5年はかかるよ」

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