2014年、埼玉大会(c)朝日新聞社
2014年、埼玉大会(c)朝日新聞社

 埼玉・秩父地方の山あいにある高校が、本気で夏の甲子園を目指している。大物指導者の招請、そして山村留学や、受け入れ先として快諾した老舗旅館の女将の心意気など、廃校寸前だった学校の再生プロジェクトに沸いている。野球部を中心とした町おこしを2回にわたってリポートする。(ノンフィクション作家 黒井克行)

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「カキーン カキーン……」

 立春まもない寒空の下、小気味よい乾いた音が絶え間なくグラウンドに響きわたる。打球はグラウンドを囲う外野の高い防御ネットを突き刺し、それを越えて校舎4階の窓を直撃することも。大阪桐蔭や早稲田実、智弁和歌山といった強豪校の打撃練習ではない。

 埼玉の県立高校である。埼玉県秩父郡小鹿野町をご存じだろうか。「小鹿野」は「おがの」と読む。県西北部に位置する人口1万2千人ほどの山間の町で、日本百名山や日本の滝百選、それに平成の名水百選にもその名を連ねる豊かな自然にあふれている。

 町の看板の一つである小鹿野歌舞伎は、約200年前に初代坂東彦五郎がこの地に伝えたのが始まりで、今も常設の舞台だけでなく、祭り屋台(山車)でも上演され、文化として根づいている。

 ただ、隣県ではあるが、都内から電車でのアクセスは名古屋のほうが断然いい。町に打球音をとどろかせた県立小鹿野高校は、今や県下に野球部の名をもとどろかせるまでになった。秩父農業高校の小鹿野分校として産声をあげたときに、普通科と農業科、家庭科の3科合わせて100人の生徒が集った。町はまだ終戦からの復興途上で、高校進学を希望する者は少なかったが、養蚕業と材木業で活気づくのに乗じて生徒数が増え始め、高度経済成長期には1学年6クラス定員270人、全校生徒も810人を数え、町外からも生徒が勇んで入ってきた。地元出身の2期生で元中学校教員の木村嘉忠(82)は当時を懐かしむ。

「終戦間もない頃はガソリンはなく、道は砂利でバスの運行もままならず、町の外に出るのも大変だった。だから町民の間で地元に高校をつくりたいという思いが強く、分校開校、そして小鹿野高校へと独立するまでになったんだ。一時は人気が殺到し、地元の中学から入学するのも大変だった。大学の進学率も高まり、国公立や早慶に合格する生徒も珍しくなかったよ」

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