ヌードさんのショーのあいまには、コントやお笑いショーがあった。

 三波伸介、長門勇、萩本欽一、坂上二郎、伊東四朗、東八郎(東貴博の父)、ビートたけし……。戦後の喜劇界を代表するコメディアンたちだ。若き日の修業時代をストリップ劇場で過ごしていたのだった。

 中でも、口跡の良さ、絶妙なアドリブ、物まねのうまさ、どれをとってもピカイチだったのが渥美清である。「テキ屋の見習い」として鳴らしていただけに凄みがあった。

 新聞の文化部には「浅草のストリップ劇場回り」という担当記者がいた。有名だったのが、旧厚生省広報部の嘱託職員やラジオ局のカメラマンを経て、東京毎夕新聞社に入った広岡敬一さん(2004年、肺がんのため82歳で死去)だ。浅草のストリップショーに夢中になり、劇場専属のカメラマンへと転職した。滋賀・雄琴の特殊浴場を舞台にした『ちろりん村顛末記』の著者といえば、思い出す人もいるだろう。ときにはほろりとさせる人間模様を、慕情豊かにつづった。

 昭和の浅草ストリップも人間くさい世界だった。舞台にたらいを持ち出し、じょうろで水を浴びせる「行水ショー」や、客席の上に設置したレールをヌードさんの乗ったワゴンが走る「裸女空中飛行」というショーもあった。

 あのころの浅草を取材したかったなあ……と筆者はつくづく思う。今年3月、浅草でストリップの歴史を振り返るイベントがあり、記事を書いた。青空球児、ビートきよしらも駆けつけ、浅草ストリップの思い出を語った。一条さゆりと共に「伝説のストリッパー」と呼ばれた浅草駒太夫もなまめかしい「花魁(おいらん)ショー」を演じた。

 イベントを企画したお笑い評論家で、江戸川大准教授(舞台芸術)の西条昇さん(52)は言う。

「今年は日本にストリップが誕生して70年の記念すべき年。70年の裸の大衆史は日本の大衆文化史でもある」

 ストリップの世界などアウトローだからと敬遠する人もいる。だが、歴史の幕あいからこぼれ落ちた「エロスの記憶」を振り返ることも立派な芸能史である。近松が言ったように、芸というのは「虚実皮膜の間」に本質があるのだから。

週刊朝日  2017年5月26日号