1964年ごろに「浅草フランス座」=東京都台東区浅草(c)朝日新聞社
1964年ごろに「浅草フランス座」=東京都台東区浅草(c)朝日新聞社

 社会風俗・民俗、放浪芸に造詣が深い、朝日新聞編集委員の小泉信一氏が、正統な歴史書に出てこない昭和史を大衆の視点からひもとく。今回は「フランス座」。

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 芸というのは虚にして虚にあらず、実にして実にあらず──。

 その微妙な「虚実皮膜(きょじつひまく)の間(かん)」に芸の本質があると唱えたのは、江戸時代の近松門左衛門だった。脱ぐか脱がぬか、全部見せるか見せないか。ほの暗いスポットライトの下で、優雅に、ときに妖しく舞うストリップも「裸の舞台芸術」だ。

 とりわけ東京・浅草の六区興行街にあった「浅草フランス座」は都会的で洗練された踊りが人気を呼び、その舞台に上がることは幕あいのコントを演じるコメディアンたちにとっても芸能界の登竜門だった。専属の文芸部もあり、作家の故・井上ひさしもコントの台本書きをしていた。「フランス座はストリップ界の東京大学だった」と称賛していたほどだった。

 開業は昭和26(1951)年。サンフランシスコ講和条約調印で日本が独立を回復する年である。前年に勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の特需もあり、日本経済は回復。繊維産業の復興もめざましく、「糸へん景気」という言葉も生まれた。黒澤明監督の映画「羅生門」がベネチア国際映画祭でグランプリに輝いたのもこの年だった。

 浅草の公園六区交番のすぐ近く、いまの浅草演芸ホールが立っている場所だった。鉄筋3階建てで、客席は400席。フルバンドが入るオーケストラボックスもあり、当時の日本で最大級の「ストリップ劇場」だった。新宿、池袋に姉妹劇場もあり、「東京ほど女性のハダカショーを見ることができる都市はない」と外国人も驚いたそうである。

 近くには、永井荷風が通い詰めた「浅草ロック座」(昭和22年開業)もあった。ロック座は日舞的、フランス座は洋舞的で、現代劇が主体だったという。

「ヌードさん」(愛情を込めてそう呼ばれた)らによるショーが1時間半。裸といっても、乳首は出さない。乳首には、それぞれの踊り子さんが自作した飾りをつけた。布を小さく切り、立体的に裁断・縫製。丸形、星形、ハート形。羽根をつけたり、キラキラ光るモールを使う踊り子もいた。

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