スタンドを埋め尽くすファンたち (c)朝日新聞社
スタンドを埋め尽くすファンたち (c)朝日新聞社

 25年ぶりのリーグ優勝を目前にする広島東洋カープ。かつての低迷期を払拭するかのような快進撃にファンの熱狂はやまない。赤ヘル軍団はどうやって成功の軌道を描いていったのか。

《真っ赤な、真っ赤な、炎と燃える真っ赤な花が、いま、まぎれもなく開いた》

 1975年10月16日、中国新聞スポーツ面の名物コラム「球心」に、故津田一男記者による渾身の文章が掲載された。前日には、「赤ヘル旋風」を巻き起こしたカープが、リーグ参加から25年間、待ちに待ったリーグ優勝を成し遂げた。そこには、こうも書かれた。

《カープは原爆の野に息吹いたペンペン草、踏みにじられ、見捨てられても、屈することのない雑草であった》

 カープが誕生したのは、原爆投下からわずか4年後。2シーズン目には資金不足で経営難に陥り、他球団との合併話が持ち上がった。その窮地を救ったのが市民だった。復興の夢と希望を託して寄付をした。脈々と受け継がれる「市民球団」の歴史は、戦争を生き残った人々とともにあった。

 25年間……。くしくも91年を最後にリーグ優勝から遠ざかっている時期と重なる。その間、Bクラスは18回。球団創設期以来の“第二の暗黒時代”だった。

 なぜ低迷期を招いたか。『広島カープ 最強のベストナイン』(光文社新書)の著書があるスポーツジャーナリストの二宮清純氏は言う。

「93年にFA制が導入され、主力選手が次々に流出した。一時は巨人阪神の育成機関呼ばわりされていたほどです。さらに、広島市民球場の老朽化が激しく、入場者数も落ち込みました。それが経営面の弱体化を招き、負の連鎖を起こしました」

 しかし、それも今や昔の話だ。2009年に開場したマツダスタジアムは、野球の本場である米国を思わせる天然芝の球場で、低調だった入場者数が一気に回復に転じた。開場前の08年は約139万人だったのが、15年は約211万人と、約52%も増えた。売り上げも増加し、ニューヨーク・ヤンキースから黒田博樹を呼び戻すことができた。

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