フィリピン戦は“絶望が支配” 日本兵が彷徨った地獄谷 (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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フィリピン戦は“絶望が支配” 日本兵が彷徨った地獄谷

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週刊朝日
日本陸軍の榴弾砲(撮影/写真部・馬場岳人)

日本陸軍の榴弾砲(撮影/写真部・馬場岳人)

 70年前、日米両軍が激突したフィリピンでは、52万人の日本人、1万6千人の米軍人、111万人のフィリピン人が命を落とした。地獄の戦場から生還した兵士たちは90歳を超え、自らの死を見据える。

 1945(昭和20)年1月、南方第12陸軍病院所属の田中秀啓さん=岐阜県在住、93歳=はマニラを脱出し、北部の山岳地帯に入った。

 制空権を持つ米軍は、連日のように偵察機を飛ばし、日本軍の動向を探った。将兵や民間人は日中に出歩くと、機銃掃射の標的にされた。密林に逃げ込んでも、ガソリン入りのドラム缶を投下、炎上させられた。昼は物陰に身を隠し、日が暮れてから移動した。

 飢えや病気で部隊から脱落した将兵の多くは、置き去りにされた。手元に食料も薬品もない。部隊からの脱落は、死を意味した。

「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が徹底され、捕虜になることも許されない。

 田中さんは、200メートル歩くごとに日本兵の遺体に遭遇した。

 絶望が支配していた。

 三八式歩兵銃をのどまでくわえ、足の指で引き金を引いて自決した兵士がいた。谷間にバーンと響く爆音は、手榴弾(しゅりゅうだん)による自殺だ。5、6人が折り重なって死んでいる例もあった。

 山中を逃げるうち、アシン谷にたどり着いた。多くの死者が出て、のちに「地獄谷」と呼ばれた場所だ。

 田中さんは、岐阜・郡上八幡にある寺の僧侶だった。戦場でも咒字(じゅじ)袈裟と数珠を持ち歩いていた。

 マニラにいたときには、末期の兵士をみとる軍医に「人間とはどういうものか」と問われたことがあった。


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