ヨルダンの日本大使館前で市民が追悼 (c)朝日新聞社 @@写禁
ヨルダンの日本大使館前で市民が追悼 (c)朝日新聞社 @@写禁

 フリージャーナリストの後藤健二さんが殺害されてから、国内外で追悼の声が相次いでいる。後藤さんと湯川遥菜さん解放のためにできることはあったのではないか。

 国会では4日と5日に集中審議が開かれ、政府は事件の対応について野党から追及を受けた。そこでは疑問点も浮かび上がってきた。

 まず、後藤さんがシリアで行方不明になったことを政府が知ったのは昨年11月1日。後藤さんの妻から連絡があったという。それが、何者かに拘束されたと認識したのは12月3日。「犯行グループからメール接触があったと連絡を受けた」(岸田文雄外相)。

 ここで一つの疑問点が浮かぶ。政府は、後藤さんが何者かに誘拐されたことは把握していた。ところが先月17日には、安倍晋三首相はエジプトでの演説で、

「イスラム国と闘う周辺各国を支援する」

 と、強い表現でイスラム国を批判。そして3日後の1月20日、イスラム国は湯川さんと後藤さんの最初の殺害予告動画を公表した。政府は殺害予告が出るまで、後藤さんを拘束した組織がイスラム国だと特定できなかったという。

 イスラム国が映像を出した直後から、政府は慌てて在ヨルダン日本大使館の人員を増員。だが、最後までイスラム国との直接交渉はかなわなかった。

「日本はイスラム国との交渉のチャンネルがつくれず、ヨルダン政府を頼ることしかできなかった。ヨルダン政府は人質解放の交渉をしたが、自国のパイロットを人質に取られており、日本の交渉を優先させることは不可能だった」(ヨルダンで取材を続ける朝日新聞特派員の三浦英之記者)

 ヨルダン政府の最大のカードは同国で収監されていたサジダ・リシャウィ死刑囚の釈放だ。イスラム国は一時、後藤さん解放の意思を示したが、ヨルダン政府はパイロットの安否確認を優先し、交渉は決裂した。

 一方、1999年8月に中央アジア・キルギスで起きた日本人鉱山技師らがイスラム武装勢力に誘拐された事件では、63日後に人質解放に成功した。当時、官房副長官として人質解放に尽力した新党大地の鈴木宗男代表はこう話す。

「在ウズベキスタン日本大使館の高橋博史参事官(現アフガニスタン大使)が、中央アジアのゲリラ勢力に精通していて、とても助けられた。キルギスにはキャリア官僚による現地対策本部もあったが、彼らには何のチャンネルもなかった」

 キルギス政府を通じての交渉に情報の混乱もあった。高橋氏は身代金なしでの解放を前提に交渉を続けていたが、キルギス政府から現地対策本部を通じて日本政府に300万ドル(約3億円)の現金を準備するよう要求があった。このカネはドル紙幣で運ばれたという。

 ところが、このカネは武装勢力には渡らず、キルギスの政治家らの間で横領されたといわれている。人質の解放が成功しても、苦い教訓を生んだ。

「今回のイスラム国の事件で、あらためて日本には国力に見合ったインテリジェンス能力がないことを露呈した。11月に後藤さんが行方不明になった情報を入手してから、どのような体制を取り、官邸はどういう報告を受けていたのか。政府は検証をして、可能な限り公開しないといけない」(前出の鈴木氏)

週刊朝日 2015年2月20日号より抜粋