AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL

「話題の新刊」に関する記事一覧

ぼくは原始人になった
ぼくは原始人になった 腰布一枚に手製のサンダル。ブランケットに石のナイフ、わずかなチアシードのみで狩猟生活を送る冒険家が、大自然の一部になり「生」の喜びに出会う体験を綴る。  学校教育に馴染めなかったマットは、小学2年生のときに教科書で見たアメリカ先住民が使う槍頭の美しさに魅了され原始生活を志す。飢えと凍え、そして死と隣り合わせの中、棒きれで火を熾し、罠にかけた動物の血肉を食らう。極限状態の中で五感は冴えわたり、時に58日間で2700キロの大地を駆け、時に20メートル先の魚を槍で突いた。やがて歯石は剥がれ落ち、口臭は消え、毛髪は豊かに──荒野で手つかずの合理性に出合う。サバイバルのコツは無知を自覚すること。大地に耳を傾けマットが見つけたのは「生」の答えではなく、答えを生涯探し続ける覚悟だろう。
すべての見えない光
すべての見えない光 舞台はナチスドイツ占領下のフランス。物語はドイツ人少年兵とフランス人少女の視点から交互に語られる。一場面は極めて短く、スイッチバックが激しい。複数の物語が同時に進行し、一瞬の邂逅を迎える。  両国どちらにとっても暗く困難な状況で、間違いを犯さないことのほうが難しい。人々は皆なにかしらの罪の意識を抱え苦しむ。暗いほうへ流れに身を任せれば何倍も楽かもしれない。何も考えずに。しかしそこで必死にのみ込まれまいと手を伸ばし、光のほうへ生きようとした人々が、この小説では描かれている。  そのすべての人々の幸せを願わずにいられない。どうか、どうかと半ば祈りながらページをめくっていくうちに、物語は終わりを迎えてしまった。ピュリツァー賞受賞の本作は、間違いなく今年一番の良書だ。 (後藤明日香)
ロッキング・オン天国
ロッキング・オン天国 愛憎どちらに傾くにしても、洋楽ファンにとって「ロッキング・オン」は無視できない雑誌だった。何しろ誌面が熱かった。新しいバンドが登場するたびに、大げさなキャッチが飛び交う。前のめりで扇情的な煽り方は、今も大きな影響を残している。  本書はその2代目編集長による回顧録。だが、意外なほど客観的な視点で編集部にいた7年間を振り返っている。それはロック神話が生きていた時代に、「金儲けに走らないと面白くもなんともねえよ」と社員公募に応募した著者の資質によるのだろう。具体的なビジネスモデルや部数への言及も多い。とはいえ、著者が金儲けの道具としてだけロックを見ていたかというと、そうではない。オアシスやニルヴァーナなどの取材エピソードは控えめな筆致ながらも、親しみがこもって熱い。 (山口浩司)

この人と一緒に考える

みすず書房旧社屋
みすず書房旧社屋 20年前に解体された本郷3丁目のみすず書房旧社屋を、取り壊し直前に写真家が撮影していた。親しみに満ちたモノクロ写真に社員やゆかりの人々の文章が添う。  ビルの谷間の角地に佇む、木造2階建ての、住居のような質素な建物。「屋根の一角に物干し台まで載っていた。みすず書房の知的で清楚な書籍のイメージとはかけ離れていた」と写真家の鬼海弘雄。扉を開けると狭い上がり口に書物が押し寄せ、どこもかしこも雑然と、本と紙であふれる。ドアストッパーには『日本紳士録』や『著作権台帳』が使われ、便器の下には「ニューヨーク・タイムズ」が敷かれた。編集会議が開かれた2階大部屋から、人は廊下まではみ出した。ほぼ毎日、夕方になるとビールを買ってきての飲み会が始まった。築48年。旧き良き時代の出版人の熾がともる。
飾らず、偽らず、欺かず 管野須賀子と伊藤野枝
飾らず、偽らず、欺かず 管野須賀子と伊藤野枝 大逆事件で刑死した管野須賀子と関東大震災後の混乱の中で虐殺された伊藤野枝。明治時代に生まれ、逆風を受けながらも女性解放のために動いた二人の生の軌跡を丹念に追った一冊だ。  年齢差は14歳ながら生前は交わらなかった二人。だが、管野の刑死の翌年に伊藤が論壇にデビューしたのは歴史の必然なのだろう。二人は生い立ちこそ異なるが、ともに世間や国家権力に押しつぶされそうになりながら、もがき、個人の自由を目指した。自らが捨て石になり、死を覚悟して理想を実現しようとした姿勢も重なる。  果たして女性は自由になれたのか。二人が100年前に抱いた慣習や女性差別への違和感は横たわったままだ。彼女たちの言説が現代に照らし合わせても、古びていないことが皮肉にもそれを物語っている。
アメリカはなぜトランプを選んだか
アメリカはなぜトランプを選んだか その立ち振る舞いが世界の注目を集めたドナルド・トランプ氏。出馬宣言以降の言動から、彼が国民の支持を集める背景を探った書だ。  不動産事業やカジノ経営を手掛ける実業家として政界に進出、自己資金で選挙活動を行う。独自の経歴やスタイルから導かれるのは、「本音」を感じさせる発言だ。「政治的に正しくあることはとても退屈」と語り「不法移民には強制送還を実行」「ヒラリー・クリントンは夫も満足させることができない」等々、社会的弱者や対立候補への攻撃的な言動も辞さない。発言がメディアで非難を受けるほど、かえって国民の注目は高まり、支持率は増した。彼に目を奪われるとき、私たちは既に「トランプショー」の一員だったのだ。からくりを気づかせ、政治家に「使われない」ためのヒントを与える。
私の日本地図2 上高地付近
私の日本地図2 上高地付近 日本全国を行脚した民俗学者が、生前刊行した著作集のリニューアル版。昭和40年、信州・上高地付近の地域を歩いた際の記録12編が収められる。土地の多くは、谷奥に潜むいわゆる「僻地」。古道を歩けば「実に平凡なさびしいところ」(「桧峠」)、「全く忘れられた世界」(「鎌倉往還」)と、描写には物悲しさが漂う。宮本はこうした厳しい環境に人々が住み着き、くらしを営む過程に目を向けた。例えば番所はまず養蚕・林業が地域の収入を支え、のち、スキー客・学生向けの民宿業が発展した。何もなかった場所に、自身の手で「経済」を生み出していく。その創意工夫の姿勢は、与えられた仕事に従事することの多い現代人にとって参考になる。  宿の主人に土地の歴史を何時間でも訊ねたという宮本の熱量が時代を超え届く。
堤清二 罪と業 最後の「告白」
堤清二 罪と業 最後の「告白」 セゾングループの総帥であり、作家辻井喬の顔も持った堤清二へのロングインタビューを、物語のような筆致でまとめた、第47回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)受賞作。  西武グループの礎を築いた実業家で、異常な好色家であった父・康次郎が生んだ“業”と“矛盾”。死してなお清二と弟・義明氏を呪縛し、二人の因縁をつくった経緯が生々しく描かれている。その清二が、父への激しい憎悪を口にしながらも、父が命をかけた財産を守る意思や、「父に愛されていたのは、私なんです」と語る。青白い情念を帯びた言葉で父の愛情を確認しようとする「静かな狂気」の様は、最晩年の心境であり、本書はそれを見事にすくいとり、堤家とは、西武グループとは何だったのか、という根源的な問いを投げかけている。
日本の一文 30選
日本の一文 30選 文体論を長年研究し、『日本の作家 名表現辞典』など様々な辞典を編纂した著者による名表現の案内書だ。 「円い甘さ」のようにはっとするような結びつきで読者の眼をしばたたかせる川端康成、暗い部屋の中で蝋燭の焔が揺れる様子を「夜の脈搏(みゃくはく)」と表現する谷崎潤一郎、「湯桶のような煙突が、ユキユキと揺れていた」と独創的なオノマトペで新鮮な感覚を感じさせる小林多喜二。プロの作家たちによる名表現がどのように書かれているかを分かりやすくひもといていく。 「人生に、汗水たらして働くだけではない、ゆとりの時間が必要なように、文章にも的確で効率のよい表現を求めるだけではない。人間は《ことばで遊ぶ》楽しみも知っている」と著者は言う。日常を潤す日本語の味わい方を知ることができる。

特集special feature

    水俣の海辺に「いのちの森」を
    水俣の海辺に「いのちの森」を 水俣の海岸の再生を願う作家が、植物生態学の第一人者と対談。  石牟礼の家の対岸にある「大廻りの塘」は有機水銀などの毒に侵され、埋め立てられている。だが、むかしは海の潮を吸って生きる、アコウというガジュマルの仲間の木が生えていた。苗を海岸に植えたい、と石牟礼が言うと、土壌条件を整えたのち、水俣の海岸本来の木にシイ、タブノキ、カシと混ぜて潮水にも耐える森をつくっていけると宮脇。  東日本大震災の被災地沿岸の防波堤林を始め、世界1700カ所以上でその土地本来の植生の森をよみがえらせてきたが、宮脇に毒に侵された土地の再生例はない。しかし、水俣が森によって再生していく姿を発信できればと願う。石牟礼の文学の底に流れる鎮魂の思いや、宮脇の研究に関する文章も収める。
    メメントモリ・ジャーニー
    メメントモリ・ジャーニー 「お葬式の場が明るくなるような仕掛けができないだろうか」。会社員ながら、休日にハンドルネームで活動する著者が企てたのは、本書の中心となる「ガーナ棺桶紀行」だ。  西アフリカの工房に、将来自分が入りたい「装飾棺桶」を発注。オーダーメイドで魚や動物、飛行機など希望に応じて、形は多様、色も鮮やか。現地では富裕層に限られるそうだが、「生前葬」と題してネットで資金を集め、いざ工房見学の旅へ。  著者が注文したのは「ポテトチップス」型で、ボディには協賛スポンサーのロゴも。完成時に工房の一族総出の宴が催され、白と黒の「お弔い」イメージが吹き飛んでしまう。さて、どのようにして持ち帰るか。二つ隣の国ベナンへも足を延ばし、「呪術」で知られるヴードゥー発祥の地で王様と会う話も面白い。
    本当はブラックな江戸時代
    本当はブラックな江戸時代 江戸時代を無邪気に礼賛する風潮に一石を投じる一冊。江戸は本当に人情味に溢れ、清潔で安全だったのか。遊郭はユートピアだったのか。著者が明らかにするのは現代からすれば顔をしかめたくなる現実だ。  裏長屋は糞尿や生ゴミの腐臭が漂い、街中では肥桶を引っ繰りかえす事故が頻発していた。江戸っ子は「一日二回入る」ほどの風呂好きとも言われるが、1週間にせいぜい1回程度。治安が良かったわけでなく事件が起きても当事者同士の金による示談が多く、表沙汰にならなかっただけ。遊女も年季の途中で感染症で病死する者が大半だったとか。  タイトルは過激なものの、江戸時代を暗黒時代として捉えたいわけではなく、視点はあくまでも客観的。当時の写真や戯作の挿絵などを用いながら、江戸の実態を浮かび上がらせている。
    地上の星
    地上の星 戦国時代に小豪族五人衆のゆるやかな支配が続いていた天草だが、キリスト教が急速に広まり、豊臣秀吉の天下統一の波に呑みこまれていく。迎えた「天正天草合戦」(1589)では加藤清正と一騎打ちに向かう武将木山弾正、妻で天草一の美貌といわれたお京の方らが奮戦する。「武」の歴史だけでなく、布教のため、日本語とポルトガル語の辞書『日葡字書』作りに命をかける人々も登場する。少女時代から苦難が多かった「おせん」もその一人で、 「雨に濡れて、露恐ろしからず」  という言葉を支えに生き続ける。徳川幕府が誕生した1603年に字書は完成、老いたおせんが入信する場面は美しい。  松本清張賞を受けたデビュー作『マルガリータ』同様、宗教よりも生き方を問う作品となった。
    煙が目にしみる 火葬場が教えてくれたこと
    煙が目にしみる 火葬場が教えてくれたこと 米国シカゴ大学で中世史を学んだ女性が、サンフランシスコの葬儀社に就職し「火葬技師」として働いた1年間の体験記だ。  土葬が基本の米国で、近年増加傾向にあるとはいえ火葬はマイノリティ。「なんでまた大学を出て。それも火葬場に」と同僚からも首を傾げられる。 「死」に強い関心をもった8歳の時の体験をはじめ、小説を読むようなタッチで日々の出来事が綴られる。一人きりの職場に慣れたある日、赤いワンピースで出勤するや「そこのあなた」と遺族から叱責される。火葬室に遺族が集うのが稀だったためだ。「遺灰の配送」も珍しくはなく、難癖をつけて料金を払うまいとする輩もいる。異文化の集積する多民族国家。逸話の一つ一つから、弔いの儀式や捉え方はこんなにも異なるものかと驚かされる。
    月兎耳の家
    月兎耳の家 2年前、膵臓がんのため64歳で旅立った稲葉真弓の遺稿小説集である。  表題作「月兎耳の家」は、初老に近づいた主人公の「私」が元女優志願の老いた叔母を施設に送るまでの話。「月兎耳」とはベンケイソウ科の地味な植物。ラスト部分に〈老婦人のさして長くはないだろう晩年を見届ける〉という主人公の呟きがあるが、そこからは十分に思いを果たせぬまま逝った著者の切なさが伝わる。 「風切橋奇譚」は、死の前年に1年間雑誌に連載された幻想小説。作者はこの時すでに死を覚悟していたに違いない。あの世と現世を行き来する物語で、著者は涙を流しながら最後の力を振り絞って綴ったのでは、と思わせる雰囲気が文章に流れている。  収録された3作品からはともに人生の無常、生命の無情が感じとられる。

    カテゴリから探す