AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL

「今週の名言奇言」に関する記事一覧

憲法九条の軍事戦略
憲法九条の軍事戦略 改憲に意欲満々かと思ったら、参院選を前にトーンダウンしたようにも見える安倍晋三首相。もっとも改憲は自民党の悲願。選挙に勝てば議論はすぐに復活するだろう。  で、松竹伸幸『憲法九条の軍事戦略』。護憲派のあなたにも改憲派のあなたにも発想の転換を促す、これはなかなか魅力的な一冊だ。  9条を肯定する人が過半数を占める一方、自衛隊を肯定する人も8割を超す日本。一見矛盾するようだが、〈軍事力に頼るという気持ちは、平和を願う気持ちと矛盾しない〉と著者はいう。〈衝突を回避するための軍事力の使用のあり方というものが存在するのである〉とね。  たとえば専守防衛。相手から武力攻撃を受けたとき(時点)、自衛のための最小限度の範囲(態様)と、最小限度の武器(装備)でなら防衛力を行使できるという考え方のことである。これこそ9条の制約といわれるが、じつは国際法が規定する自衛もほぼ同じ。つまり〈本来ならどの国も守るべきことを、九条があるが故に、日本が率先して守っているという程度〉のことにすぎない。  あるいは集団的自衛権。たしかにこれは国際法が認め、9条がある日本では認められていない権利である。だが歴史上、集団的自衛権が発動された例は旧ソ連のアフガン侵攻やベトナム戦争など数えるほどしかなく、その実態は集団的自衛権の範囲を超える超軍事大国の侵略戦争に近かった。〈そんな権利を行使できるようになることが、日本の軍事戦略上、はたして必要なのだろうか〉  と、こんな調子で歴史や国際法をにらみつつ、著者は主張するのである。むしろこれまで制約と考えられてきた9条こそが、国際平和の上では優位性につながるのだと。  事実上、日米安保に頼るという軍事戦略しかなかった日本に、9条の新しい使用法を説いた本。ある人には邪魔者扱いされ、ある人には神と崇められてきた9条は、意外とフツーに使えるヤツだったのだ。あっさりクビにするのはもったいない。
民王
民王 国会の答弁に立った総理大臣はぎこちなく原稿を読みはじめた。「我が国はいま、アメリカ発の金融、えーと、金融キキンによる、あー、ミゾユーの危機にジカメンいたしており……」「一部の業界においては大型倒産がハンザツし、製造業においては、ハヤリ労働者切りの問題が……ワカオキしておりまして」  金融キキンは金融危機、ジカメンは直面、ハンザツは頻発、ハヤリ労働者は派遣労働者、ワカオキは惹起。ミゾユーは説明の必要もないだろう。  池井戸潤『民王』は今月の文庫新刊。「民主」の間違いではなく「タミオウ」。漢字が読めない首相を主役にした、これはミゾユーの政治エンターテインメントなのである。  もっとも現実とはちがい、この首相が漢字を読めないのには理由があった。彼は外側こそ民政党総裁の武藤泰山首相だが、中身は出来の悪い大学生である息子の翔。作中でも「くだらない映画みたいに?」と揶揄(やゆ)されているように、これはよくある「入れ替わりモノ」なのだ。  前任者が2人も立て続けに辞任した後、解散総選挙の管理しか期待されていない武藤首相。授業も受けず遊び暮らしていたとはいえ、政治家になる気はさらさらなく、もっか就活中の翔。2人が国政の場で、あるいは面接試験でどう対処するかが本書の読みどころなのだが、アハハと笑ってばかりもいられない。  麻生太郎内閣の末期(2009年8月)にウェブ連載がスタートし、鳩山由紀夫内閣の末期(10年5月)に本になり、安倍晋三内閣の参院選直前に文庫になる、このタイミング。この際、現首相の中身も誰かと入れ替わってもらえないだろうか。たとえば夫人の昭恵さんとか。  首相には「私は原発反対なので非常に心が痛む」「日本発のクリーンエネルギーを海外に売り込んだらもっといい」と語った夫人になっていただく。現首相は韓流ドラマで隣国への理解を深めていただく。ついそう考えたくなるほど、現実の政治が危機にジカメンしてるってことですよ。
小泉進次郎という男
小泉進次郎という男 書店をうろついていたら、見るだにイラッとする本を見つけてしまった。別冊宝島編集部編『小泉進次郎という男』。〈爽やかなルックスと明快な弁舌でいまや自民党「最大のスター」となった小泉進次郎。総理の血を受け継いだ彼の軌跡は、孤独と挫折と波瀾に満ちたものだった〉(巻頭言より)。なんだそれ!?  とっさに『KOiZUMi─小泉純一郎写真集』(双葉社、2001年)を思い出す。この写真集には首相就任直後の元首相の名言奇言が論評抜きで載っており(「ほほよせて好きよなんでもあげるわとささやく君の若さいとしき」なんて短歌も)、首相のトンチキぶりが暴露されている点で、いま思うとけっこう批評的だった。  では、この本はどうか。“別タカ”、おかしいです。〈政治家は言葉が命ですよ〉という進次郎の語録はまだしも、付随する賞賛のコメントがいちいち煩わしい。選挙戦デビュー時の逸話を評して〈やはり進次郎は、当時から只者ではなかったのだ〉。父とキャッチボールをしただけで〈親子関係が希薄な今、見習いたいものである〉。その父が総裁選に勝って「国民の力を感じた」という話には〈進次郎が言う“国民目線”は、このときから生まれたのかもしれない〉。まるで教祖扱い。自民党の機関誌でもここまではやらんでしょ。  さらに気持ちが悪いのは、記事中で進次郎を讃えるほぼすべての人が実名なしの肩書だけなこと。政治評論家、永田町関係者、政治部記者、全国紙記者、民放記者、地方議員、東北復興支援団体、地元関係者、近所住民……。週刊誌名がずらりと並ぶ巻末の資料一覧を見て納得した。これは既刊の週刊誌記事を切り貼りして作ったお手軽な本なのだ。  後継者として指名された際「もう家のことは任せた」と父にいわれた進次郎は〈家長としての手腕も相当なものだ〉そうで、兄弟仲もいい。かくて女性週刊誌の直撃には開口一番〈孝太郎を特集してくださってありがとうございます〉。記者は感激したという。チョロい国だね。
宅間守 精神鑑定書
宅間守 精神鑑定書 2001年6月8日、大阪教育大学付属池田小学校で、児童8人が死亡し、児童13人、教諭2人が重軽傷を負う痛ましい事件が起きた。逮捕された宅間守は当時37歳。03年8月に大阪地裁で死刑判決が出、弁護団は控訴するも宅間自身が控訴を取り下げたために死刑が確定。04年9月、異例の早さで死刑が執行された。  岡江晃『宅間守 精神鑑定書』はその宅間守の鑑定医による本。タイトル通り精神鑑定書がほとんどそのままの形で収められている。先週の本欄で取り上げた堀川惠子『永山則夫 封印された鑑定記録』が事件の核心に迫る驚きの内容だったので、本書にも期待したのだが……。  宅間守は1963年、兵庫県で生まれた。小中学校時代から粗暴な言動が目だつ。同性の友人はおらず、女性に対する態度も逸脱的。公務員だったこともあるが職を転々とし、犯罪歴も多数。精神科への断続的な通院歴と4度の入院歴がある。4度の結婚と離婚をし(最初の2人の妻は十数歳年上)、犯行の直前には3度目の元妻への復讐を考えていた。  同情しにくい人生ではある。鑑定書が出した結論は人間的な感情に乏しい「情性欠如」。ただ、あまりに常軌を逸した行動が多すぎて逆に気になる。鑑定書もまた〈いずれにも分類できない特異な心理的発達障害があった〉といい、〈現在の精神医学の疾患概念には当てはめることのできないほど、バラバラな症状と非定型的な症状である〉と述べる。 〈僕もパイロットになりたくなってしまった〉。それでちょっと勉強し〈国立の中学校に行きたいと思った〉。一貫して自暴自棄な三十数年間で唯一健全性がうかがえる、宅間の高校時代の反省文の一部である。〈自らもかつて入学を希望したがかなわなかった池田小〉という判決文に呼応するのも唯一ここだけ。  鑑定書という本の性格上、本書から宅間守の全貌を知ることはできない。まとまった形のノンフィクションを誰か書いてほしい。あれだけの事件を、だって風化させられる?
永山則夫 封印された鑑定記録
永山則夫 封印された鑑定記録 1968年の秋、東京、京都、函館、名古屋で4人が射殺された、いわゆる「連続射殺魔事件」。容疑者として逮捕されたのは当時19歳の永山則夫。一審は死刑、二審は無期懲役となるも、90年に死刑が確定。97年には死刑が執行された。  忘れられようとしていたそんな事件に新たな光を当てたのが、堀川惠子『永山則夫 封印された鑑定記録』である。〈二一年もの歳月を費やして行われた裁判も、その解明には何の役にも立たなかった〉と著者が書く理由とは何だったのか。  一審の公判中だった74年(24歳当時)、永山は8カ月に及ぶ丁寧な精神鑑定を受け、鑑定担当医の石川義博医師は100時間分もの録音テープを保管していた。それらを手がかりに、本書は知られざる永山像と事件像を浮き彫りにする。  なによりもまず言葉を失うのは凄絶としかいいようがない永山の生育歴だ。8人きょうだいの下から2番目(四男)に生まれ、北海道と青森ですごした子ども時代。永山は〈おふくろは、俺を三回捨てた〉と語っている。想像を絶する死の恐怖。子ども時代の虐待が後の人格形成にどれほど暗い影を落とすか。石川鑑定は当時まだ一般的でなかったPTSD(心的外傷後ストレス障害)を援用したはじめての鑑定となった。  「無知と貧困」という永山のイメージを覆す事実はそれだけではない。彼の獄中ノートをまとめた『無知の涙』がベストセラーになったのは71年だが、彼はけっして「無知な少年」ではなかった。犯行前からドストエフスキーを愛読し、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読み込んでいた。自身と作中人物とを重ね〈兄弟を見ちゃうんだよね。スメルジャコフと俺がだぶっちゃってね〉。そして彼はノートに書く。〈「無知」、これでなければならなかったのだ〉。  兄たちとは異なる悲惨な境遇で育った『カラマーゾフの兄弟』の四男スメルジャコフ。え、なんで? と思った方は一読を。推理小説よりはるかにサスペンスフルである。
どうして君は友だちがいないのか
どうして君は友だちがいないのか 「慰安婦は必要だった」発言がたたって、日本中、いや世界中を敵に回してしまった日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長。自民党にもそっぽを向かれ、選挙協力を約束したみんなの党にも引導を渡されて、もっか四面楚歌の状態である。 『どうして君は友だちがいないのか』はそんな橋下市長のタレント弁護士時代の本である。意味深なタイトルに見えるけれど、発行は大阪府知事選に出馬する前の2007年7月。「14歳の世渡り術」という中学生向けシリーズの一冊で、テーマは友情。ただしもちろん、並の「友情は大切だ」論ではない。  なにせ冒頭から彼はいいきるのである。〈友だちなんて、そもそもが役に立たない存在です〉。友だちの本質とは〈・メリットなし/・面倒ばかり/・いっしょにいてもなにか与えてくれるわけではない〉。  ただ、そうはいっても人間関係の中で人は生きなくてはならない。そのための世渡り術として、著者が推奨するのはジャイアンについていくスネ夫的な生き方だ。〈君を取り巻いている人間関係をしっかり、意識的に観察して、強い存在を見つける。影響力のあるグループなり人物を探す。これがまず第一歩です〉  石原慎太郎共同代表と組んだのももしかしてそれだったのか。  理想論をかざしても子どもは追いつめられるだけ。バーを低く設定しておけば気が楽になるという親心から出発した本ながら、提言の数々をいま読むと妙に納得させられる。  トップはどうせ入れ替わる。〈リーダー格の人間が、三年間君臨し続けたという例はありません〉。どんなに仲良しの友だちでもいつかは「さようなら」のときがくる。そんなときは放っておきなさい。〈こじれた関係を元に戻そうとして、あれこれいじってもしょせんムダ〉  これも建前を廃して本音で生きる橋下流? かけ引きこそが居場所をつくるというクールでドライな人間関係論。孤立してもへこたれないタフな精神を培うには有効かもね。

この人と一緒に考える

ダース・ヴェイダーとプリンセス・レイア
ダース・ヴェイダーとプリンセス・レイア バカバカしいといえばいえるが、「スター・ウォーズ」ファンはそりゃあ買うよね。シスの暗黒卿もおうちではただのパパ。『ダース・ヴェイダーとルーク(4才)』はダース・ヴェイダーとルーク・スカイウォーカー父子のごく平和な家庭生活を描き出した子育て絵本だった。  同じ作者と訳者による『ダース・ヴェイダーとプリンセス・レイア』(ジェフリー・ブラウン作、とみながあきこ訳)はその続編(どうせなら「レイア姫」と表記して欲しかったわ)。前作で幼いルークのやんちゃぶりに振り回されたパパは、今度は幼女からティーンにまで成長する娘のレイアにとことん翻弄される。  父は娘が心配で仕方がない。ヘソ出しルックの娘を見れば〈わたしがここに来たのは、そのズボンをひっぱりあげるためだ〉。娘がケータイをしていれば〈彼らの送った設計図がどうなったのかを知りたい〉。しかし、レイアも反乱軍である。負けてはいない。父の制止をふりきってインペリアル・シャトルで出かけるわ、オビ=ワン・ケノービに借金は頼むわ。彼氏のハン・ソロとのことで彼女の頭はいっぱいなのだ。父はおもしろくない。ふたりのキスシーンを目撃した父は〈やめろぉぉ〉と叫んで娘の彼氏をカーボン冷凍にしてしまう。  「スター・ウォーズ」はギリシャ悲劇の「オイディプス王」にはじまる「息子の父親殺し=父と子の確執」というモチーフを含む物語である。4歳のルークの物語は父が息子をかまってやれるのは幼児のうちだけ、という暗示なのかも。一方、娘はいくつになっても父の監視を逃れられない。だから思春期になると父娘は必ず対立するのだ。  でも、インパクトはいまいちだったかな。父の権威も威厳も失墜した現在ではこのくらいのパパはどこにでもいて、鉄兜で武装した外見とのギャップもべつに驚かない。  笑ったのは唯一ここ。ある日、娘は父に質問するのだ。〈作文の宿題がでたの……あのね、パパのお仕事は具体的になんなの?〉。
わたしは妊婦
わたしは妊婦 大森兄弟は兄弟ユニットの作家である。兄は1975年生まれ、弟は76年生まれ。2009年に文藝賞を受賞したデビュー作『犬はいつも足元にいて』は芥川賞候補にもなったけど、たしか「ふたりでひとつの作品を書くなどふざけている」とかなんとか評されて落選した。 『わたしは妊婦』はその大森兄弟の最新作。男兄弟が書く、妊婦の一人称小説だ。また「ふざけている」とかいわれそう。いやいや、『わたしは妊婦』は書店より赤ちゃん本舗とかで売って欲しい小説だ。  「私」は妊婦である。つわりに苦しんでいる。だのに夫は余計なことばかりいいくさる。〈妊婦さんには避けたほうがいい魚があるんだ〉〈まぐろっ、めばちっ、めかじきっ、きんめだいっ。水銀に注意。養殖魚、近海魚はダイオキシンとか抗生物質の恐れありっ。海藻、食べすぎ危険。ハーブ、これも危険、胎児に影響が出る〉。「私」は遮る。〈その胎児に影響がっていうの、止めてほしい〉  「私」は会社員である。会社員だからいずれ産休を取得したいと部長にいう。〈そうですか、それはおめでとうございます〉。自分がいなくても会社は問題ないというのだろうか。「私」は高校時代の友人に会う。誰も「私」の愚痴をまともに聞かない。〈でもさ、ゆり子って幸せだと思う〉。「私」には同じ妊婦の文通相手がいる。彼女はノーテンキである。理想の妊婦ぶっている。夫も理想の夫気取りである。ついに「私」はブチ切れる。〈だから、そういう次元の問題じゃないのよ〉〈なんなのその言い方、人を動物みたいに〉  かつて妊婦の本音を綴った妊娠出産エッセイがベストセラーになったことがあった。石坂啓『赤ちゃんが来た』(93年)とか、まついなつき『笑う出産』(94年)とか。それから20年たって出現した、本音以上に本音っぽい妊婦小説。シュールで大胆不敵でちょっぴり不気味。身近に妊婦がいる人(夫・父母・義父母・友人・職場関係者・その他)はみんな読んで反省しなさい。
くまモンの秘密
くまモンの秘密 全国制覇を果たしたゆるキャラといったら、有名なのは彦根市のひこにゃん、次に奈良県のせんとくんだろう。ところが、ここへ来て急に存在感を発揮しだしたキャラがいる。熊本県のくまモンだ。誕生したのは2010年。だけど当初は、本人いわく〈熊本県民も あまり知らない、熊本のシンボルです〉だった。それが翌年には350ものゆるキャラが集まる「ゆるキャラグランプリ2011」で見事1位を獲得! 『くまモンの秘密』はそこに至るまでを綴った汗と涙の記録というか自慢本。もともとは『もしくま──もし、しがない地方公務員集団「くまモンとおもろい仲間たち」が小山薫堂氏の「もったいない主義」他を読んだら』という私家版の冊子だったそうで、著者名は「熊本県庁チームくまモン」だ。  くまモンがユニークなのは、なんといっても地元を離れ、大阪で活動をはじめたことだろう。それも熊本ではなく大阪のPRをする。お披露目は甲子園球場の看板で、「くまもと」の文字は申し訳程度に入っていただけ。次はくまモンが大阪市内のあちこちに出没する「くまモン神出鬼没大作戦」。その間にも名刺だけは配りまくり、活動の内容は「くまモン大阪出張紀行」というブログにアップする。本当に伝えたいのは〈九州新幹線全線開業! 大阪←→熊本・約3時間〉〈2011年3月熊本がグンと近くなる!〉ということだったけど、それはたまにそーっと出すだけの、謙虚かつ自虐的な日々。その結果、一介の非常勤キャラにすぎなかったくまモンは県の営業部長にまで出世し、費用対効果はなんと予算の8倍に当たる6億4千万円!  いまやご当地キャラがいない自治体を探すほうが難しいほどの日本だけれど、キャラはデビューさせただけじゃダメなのだってことがよーくわかる。〈いちおう、公務員です〉というスタンスが泣かせる。みんなもアウェイで汗をかけ。知名度アップに血道をあげる全国の自治体のみなさまはとりあえず必読だ。
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 一読しての印象は「まぁ普通の小説かな」。「普通」とは、作者の過去の作品や近年の他の作家の作品と比較して、すごくもないがひどくもない、くらいの意味である。作中人物の言葉を借りれば〈勝つこともあれば、負けることもある〉。  団塊ジュニア世代とおぼしき主人公の多崎つくるは36歳。高校時代に4人の友人に恵まれたが、20歳になる直前、理由もわからず一方的に絶縁された。封印してきた過去と向きあうために、彼は仲間たちを訪ねる旅に出る。時間と空間にまたがった一種のロードノベルである。  とはいえ、もちろんそこは村上春樹。深読み心をくすぐるトラップは随所に仕掛けられている。駅舎を作る仕事。リストのピアノ曲。6本の指。性的な夢。そして色のつく名前(赤松慶・青海悦夫・白根柚木・黒埜恵理)。ここから四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)とか、庄司薫の四部作(赤頭巾ちゃん、白鳥の歌、快傑黒頭巾、青髭)とかを連想することも可能だし、それぞれの色の持つ役割を子細に検討したら、おもしろい像が浮かぶのかもしれない。  が、その手の深読みはみなさまにお任せし、あえて浅読みすると、これは究極の「自分探しモノ」である。つくるは5人組の中では〈好感の持てるハンサムボーイ〉だったのに、当人は自分を〈色彩とか個性に欠けた空っぽな人間〉だと思い込んできた。4人の仲間のうち男子2人(赤と青)はいわば色彩に乏しい世俗的な大人になり、女子2人(白と黒)の1人は過酷な運命に弄ばれるも、1人は新天地で色を獲得した。この小説の世界では、カラフルな者が存在感をなくし、無彩色な者が変貌をとげる。緑川も灰田もそう。  にしても『1Q84』はDVへの報復で今度はレイプと妊娠か。すべてお膳立てしてつくるを過去に旅立たせるのは沙羅、彼の未来に向けて強く背中を押すのは恵理。そして毎度おなじみのセックス描写。女の役割が男の支援者か性的対象だっていうあたりが古くさい。
「原発事故報告書」の真実とウソ
「原発事故報告書」の真実とウソ だれがどう考えたって「事故報告書」なんていう代物が、おもしろいわけはないのである。しかし、おもしろくないからこそ、だれかが精読しなくちゃいけないわけで、「そのうちワシが……」という野望がないわけでもなかった。でも、塩谷喜雄『「原発事故報告書」の真実とウソ』という報告書の報告書を見てわかった。私には無理でした。  著者は冒頭で慨嘆(がいたん)する。〈出そろった4つの事故調の報告書を前にして、私の内心に噴き出してきたのは、素朴な疑問と大きな怒りだった。「なんで事故調が4つもあるんだよ」〉  ですよね。いや、多様な視点を導入するという点からいえば事故調の3つや4つあってもいい。が、ほとんど同じ証言とデータを解析しながら中身にばらつきがあることをどうしてくれる。その面倒くさい判定を本書は見事にやってのけた。誤解を恐れずにいえば「おもしろい」のだ。  観点は主として3つ。まず事故の原因は地震だったのか津波だったのか。炉心溶融に至るまでの現場の対応は適切だったのか。そして官邸の対応は適正だったのか否か。  結論だけをいうと、地震と津波問題では、津波到達時刻を厳しく検証し「津波ではなく地震が全電源喪失の原因だ」と結論した国会事故調(黒川清委員長)の圧勝。現場の対応に関しては、批判を浴びた官邸の動きに一定の評価を与えた民間事故調(北澤宏一委員長)の勝ち。  総合点は5ツ星満点で、事実の検証には圧倒的な力を見せるも「今度の事故は人災だ」という言葉でウケねらいに走った国会事故調が3ツ星半。人の動きは精査するも事実の検証は甘い民間事故調が3ツ星。無難にまとめた(だけの?)政府事故調(畑村洋太郎委員長)は3ツ星。そして保身に徹した東電事故調(山崎雅男委員長)は論外の黒星1ツ。  慇懃(いんぎん)に書くだけが能ではない。批評はなべてかくありたい。全原発が再稼働した場合、重大事故を起こす確率は10年に1度だという恐ろしい指摘にもゾッとしていただきたい。
わりなき恋
わりなき恋 20年前に話題になった『マディソン郡の橋』(1992年)は45歳の女性と52歳の男性の恋愛小説だった。この程度で不倫では、でももうだれも驚かない。現代は恋愛小説受難の時代なのである。  しかし、可能性がゼロではない。岸惠子『わりなき恋』を読んでみよう。伊奈笙子(しょうこ)は国際的に活躍するドキュメンタリー作家。九鬼兼太は世界中を飛び回る大企業の重役。二人はパリへ向かう飛行機のファーストクラスで知り合い、やがて熱烈な恋に落ちる。徹頭徹尾ロマンチック。『センセイの鞄』(2001年)が70代男性を勇気づけたように本書は70代女性の希望の星となるかもしれない。笙子はもうじき70歳、兼太は一回り下。しかもそれから6年間も、二人は恋愛を持続させるのだ。ステキ!  ただ、この小説のような恋愛のためにはいくつかの条件がいる。  まず自由。笙子は医師だったフランス人の夫と30年以上前に死別し一人娘も結婚し、パリと横浜に自宅を持つ完全に自由の身。大阪在住の兼太には妻と5人の子が(孫たちも)いるが、末娘以外は独立している上、どのみち家庭を顧みない会社人間ゆえ外泊ごとき屁でもない。  そして経済力。豪華なデートつきの遠距離恋愛。年金暮らしじゃこうはいかない。あとルックスも。特に体型は重要です。メタボなんてもってのほか(男性は頭髪問題も?)。周囲の協力も必要です。笙子には優秀な家政婦や秘書が、兼太は世界中に部下がいて……。と考えると熟年恋愛のハードルは相当高い。  それに比べたらセカンドバージン喪失の恐怖なんか、どうってことないです。「かくも長き不在」に傷ついた笙子だが、ことを成し遂げた後の一言は〈やっと、安宅の関は通れた感じがする〉。〈あなたが弁慶で、私はまだ不安に慄いている義経なの〉。こんな渋い台詞、人生経験を積んだ人じゃないといえません。  が、そうなると最後の条件はやっぱ健康だな。この二人の異様な元気さ。恋愛はやはり贅沢な趣味なのだ。

特集special feature

    本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」
    本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」 日米地位協定についてはなんとなく知っているつもりでいた。米軍関係者の犯罪を日本で裁くことはできないっていう取り決めのこと? くらいのゆる~い理解の仕方で。  いやいやいや、それもあるけど、それだけじゃないんです。原発の再稼働問題も、不況下での大増税も、オスプレイの配備も、TPPの交渉参加問題も、検察の調書の捏造も、つまり日本でいま起きている多くの理不尽な現象の源流は日米地位協定にあるんです。そう主張するのが前泊博盛編著『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』である。  本書によれば、日米地位協定とは〈アメリカが占領期と同じように日本に軍隊を配備し続けるためのとり決め〉のこと。1952年に日本が独立した後も〈実質的には軍事占領状態が継続した〉。日本がアメリカにこれほど従属的なのは〈条約や協定をはじめとする法的な枠組みによって、がんじがらめにしばられているからなのです〉。こうして対米従属の起源であるサンフランシスコ講和条約や米軍の違憲性をめぐる判断を裁判所が放棄した砂川事件に遡り、あるいは沖縄の米軍ヘリ墜落事件その他を参照しながら、日米地位協定が日本国憲法の上位にある(!)ことを本書は論証していくのである。  米軍基地をめぐってアメリカの指示に従い続けているうちに〈「アメリカの意向」をバックにした日本の官僚たちまでもが、国内法のコントロールを受けない存在になってしまいます〉。それが最大の問題なのだ、と。  むろん異論がある人もいるだろう。が、歴史的に見て〈米軍が駐留する日本は、アメリカの被占領地か、植民地ということになります〉という説は説得力大。日本は〈世界で唯一の国なんじゃないかと思えるほど異常な国の姿なのです〉。  孫崎享『戦後史の正体』で話題になった「戦後再発見」双書の第2弾。編著者の前泊さんは元琉球新報の記者である。版元の創元社は大阪の会社。腰抜けな東京の出版社に挑戦状を突きつけているようにも見える。
    生き方
    生き方 食わず嫌いはいけないなあと反省した私。先月のこの欄で取り上げた『女性としての私』の著者・長谷川理恵さんご推薦、稲盛和夫『生き方』を読んでみた。2004年から部数を重ね、ついに100万部を突破したロングセラーである。  著者は京セラの創業者にして、DDI(現KDDI)そしてauを立ち上げたカリスマ経営者。京セラを創業したのは1959年、27歳のときというから、高度成長→バブル経済→IT革命という経済発展とともに歩んできた方といえよう。  一読した印象は、企業人というより宗教者の説話みたい。「プロジェクトX」にも似たビジネス上の成功秘話はいくらでもあるだろうに、それは一切語らず「魂を磨いていくことが、この世を生きる意味」「人生の真理は懸命に働くことで体得できる」など、ひたすら精神論を説く。  しかし、たとえば〈仕事がいやでしかたがないと感じても、もう少しがんばってみる。腹をくくって前向きに取り組んでみる。それが人生を大きく変えることにつながるのです〉といった言葉で得をするのは誰なのか。経営者ならぬ賃労働者のみなさまはよーく考えたほうがいい。  唯一おもしろかったのは、若き日の稲盛が2泊3日のある経営セミナーに参加した際の逸話である。講師の本田宗一郎の話を聞くために、温泉に入った後、大広間で待っていた参加者たち。作業着姿で現れた本田は彼らを一喝したという。〈みなさんは、いったいここへ何しにきたのか〉と。〈温泉に入って、飲み食いしながら経営が学べるわけがない。(略)やることは一つ。さっさと会社に戻って仕事に励みなさい〉。そしてもう一言。〈こんな高い参加費払ってくるバカがどこにいる〉  稲盛は「畳水練(たたみすいれん)」をいさめる本田に感激したというが、それなら自身も本書の読者に同じ言葉を贈るべきだろう。頑張れば報われる幸せな時代を生き、後に得度(とくど)もなさった方の人生訓。あちらは説教のプロである。くれぐれも騙されませんように。
    想像ラジオ
    想像ラジオ あの震災から2年たったとかいって、テレビも雑誌も新聞もいろいろ論評してる。だけど活字にも映像にもちょっと疲れた。だからみんなでラジオを聴こう。最後に役に立つのは結局ラジオなんだからね。  あ、でもこのラジオにはラジオ局もスタジオもない。パーソナリティのDJアークがいうには〈あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波塔であり、つまり僕の声そのものなんです〉。そんな声は聴こえないという人も大丈夫。いとうせいこう『想像ラジオ』がラジオの代わりをしてくれる。  想像だからと舐めちゃいけない。リスナーのメールも続々届く。〈みんなで聴いてんだ。山肌さ腰ばおろして膝を抱えて、ある者は大の字になって星を見て。黙り込んで。/だからもっとしゃべってけろ、DJアーク〉。これは想像ネーム・ヴィレッジピープルさんからのお便り。  リスナーの電話中継も入る。では早速呼んでみましょう。キミヅカさーん。〈はい、キミヅカです〉と応じた会社役員の男性はリアス式で入り組んだ海岸に建つ宿にいる。〈今、私は二階の廊下を進んでいます〉。が、その下の階段がない。〈エレベーターも動かない現在、そこから下へ行く手段を失っています〉  DJアークは38歳。東京での仕事をやめ、妻とふたり海沿いの郷里の町に帰ってきたばかりだった。その彼はいま高い杉の木のてっぺんに仰向けに引っかかっている。  DJアークのおしゃべりやお便りや中継の合間に(想像で)かかる曲もいかしてる。ザ・モンキーズ『デイドリーム・ビリーバー』、ボサノバの名曲『三月の水』、松崎しげる『愛のメモリー』……。ラジオ番組だから、ジングルだってもちろんあるさ。  想ー像ーラジオー。  3・11後の震災文学の中でも出色の一冊。彼がそんな状態に置かれているのはなぜなのか。そして彼が語りかけている人々とは? 知りたかったらラジオを聴こう。本の形のラジオだから何度でも再生できる。
    三姉妹とその友達
    三姉妹とその友達 福永信をはじめて読む人は覚悟しといたほうがいい。なにしろ彼は文学と現代アートの区別がついていないのだ。読者は必ず悩む。この作家は天才なのか、それとも……。  新刊の『三姉妹とその友達』には3編の中短編が収められている。うち「三姉妹」と「そのノベライズ」はワンセットの作品だ。「三姉妹」なのに登場するのは4兄弟。  「第一幕」には長男が出てきて、とうとうと語りはじめる。〈どうかその手にもっているものを投げすててくれ〉。彼が投げすててくれと懇願しているのは多機能携帯電話、いわゆるスマートフォンである。〈いかにそれが人を蝕むおそろしい悪魔の発明品であるか、よく理解し、いさぎよくおさらばしてくれ〉。そのかわり〈貝がらを手にして……それを耳にあててくれ〉。そうして〈遠い記憶を呼び出してくれ〉。  「第二幕」に登場する次男は〈どうか、同窓会に参加してくれ〉と懇願する。それは人生で出会ったすべての人が集まる「人生同窓会」。〈まだ「失敗していない」自分と出会うことができる、またとない機会〉だ。そして次男も付け加える。〈そのにぎっているものを、今すぐに廃棄してくれ。そんなものをにぎりしめて……〉  「第三幕」には三男が「第四幕」には四男が登場するが、そこは割愛する。込み入ったストーリーも無視していい。初出の文芸誌「群像」では「そのノベライズ」の部分が「今号のあらすじ」としてページ隅の囲いの中に印刷されていた。読者への小さな親切ってやつである。  人が携帯電話で話す姿と貝殻を耳に当てる姿は、思えばきわめてよく似ている。これを読んだら最後、人々がスマホに縛られている姿が不気味に見えてくるだろう。そして叫びたくなるはずだ。〈貝がら以外のものは、海に投げすててくれ〉  巻頭の注意書きにいわく。〈三姉妹で演ずる事、四人目は演出において創意工夫の事〉。女性の声で語られるべき兄弟の言葉。面倒臭いなもう。でもそれが福永信なのよ。
    東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと
    東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと 東日本大震災と東京電力福島第一原発の事故から丸2年。菅直人『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』は当時の最高責任者が、3月11日から18日までの動きを中心に綴った手記である。  この間、官邸で何が起こっていたかは、すでに木村英昭『官邸の一〇〇時間』(岩波書店)や、当時の官房副長官による福山哲郎『原発危機 官邸からの証言』(ちくま新書)でかなり明らかになっている。そこから浮かび上がるのは、報道で伝えられた「無能なイラ菅」とはいささか違ったイメージだ。批判を浴びた「官邸の過剰な介入」がなかったら、事態はもっと悪化していただろう。  で、本書。事実関係については先の2冊とほぼ同じだが、印象的なのは事態を彼がたびたび戦争にたとえている点だ。〈誰も望んだわけではないが、もはや戦争だった。原子炉との戦いだ。放射能との戦いなのだ。日本は放射能という見えない敵に占領されようとしていた〉。そして彼は苦悩する。戦後日本は「国のために死ぬ」ことを否定してきたが、この状況で撤退はない。決死の作業を自分は命令できるのか。  事故への備えが皆無の中で、それでも最悪のシナリオ(とは全原発が制御不能となり、5千万人の避難が必要となる事態を指す)が避けられたのは〈幸運だったとしか言いようがない〉とも。だから次も大丈夫と考えるのは〈元寇の時に神風が吹いて助かったから太平洋戦争も負けないと考えていた軍部の一部と同じだ。神風を信じることはできない〉。  政権末期の菅直人が浜岡原発の停止と玄海原発の再稼働中止に強くこだわり、脱原発への舵を切ろうとしたのは、この体験ゆえだったろう。まさに脱原発を標榜したゆえ、彼は首相の座から追い落とされた(のだと思う)。  菅直人は敗軍の将である。が、誰がやっても敗軍の将にならざるを得ないのが「原子炉との戦い」だ。相変わらず神風を信じている人がいっぱいのこの国って何だろうと思う。
    女性としての私
    女性としての私 女性タレントにとって、いかに好感度(ことに同性の)を保ち続けるかは重要な命題である。その点、長谷川理恵は「自然体」を上手に演出しているように見えた。(1)野菜ソムリエやマラソンランナーとしての顔を持つ一方、(2)石田純一、神田正輝ら名うてのプレイボーイと浮名を流す。私生活はどうなってんの?  昨年6月、「でき婚」のタイミングで出版された『願力』(マガジンハウス)はそんな読者の、特に(2)のニーズに応える本だった。が、元カレと夫を比較する、婚約指輪のダイヤが小さいと不満はいう。評判は散々で(アマゾンでは100件超のレビューがついたが、うち4分の3は★1である)、自省のつもりの告白が裏目に出た恰好だった。 『女性としての私』はそんなマイナスイメージを払拭(ふっしょく)すべく出版された本だろうと思われる(でなきゃ半年で自伝が2冊も出まい)。書かれているのは(1)を中心とした少女期から出産までの半生。ただこれが前著に輪をかけておもしろくない。人の幸福自慢など誰も喜びゃしないのだ、という想像力が働かないのかもしれない。なぜこうなのか。  要因としてひとつ考えられるのは彼女の読書傾向だ。〈読むのは、年間300冊ほどだろうか〉と豪語する彼女だが、そのほとんどは自己啓発書。〈啓発本はよりよい人生を生きるための、輝かせるためのヒントに満ちている〉そうで、金字塔は〈中村天風さん。そして稲盛和夫さん、松下幸之助さんたちだ〉。そっか、成功者の経営哲学みたいなのが好きなんだ。そういえば昔、石田純一も『脳内革命』を薦めてたっけな。という余談はさておき、愛読書を見ればその人の一端がわかる。〈本質はどこか男性的だと、私自身は思っている〉という一文にも啓発書で培(つちか)われた上昇志向の高さがうかがわれる。  老婆心ながら、彼女にアドバイスするとしたら「偏食はよくないよ」ってことだろう。啓発本はサプリみたいなもん。身体と同じで血や肉になる本もやはり少しは読まないと。

    カテゴリから探す