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「今週の名言奇言」に関する記事一覧

日本人はいつ日本が好きになったのか
日本人はいつ日本が好きになったのか 首相がああだと、言論界や出版界もこうなるのか。歴史認識のおかしい方が最近続出だけれども、この方の歴史観も相当なものである。  かつての日本は<「日本のことが好き」とはっきり言いにくい空気に包まれていた>が、<私たちはいま、堂々と「日本が好き」と言えるようになった>。それが竹田恒泰『日本人はいつ日本が好きになったのか』の主張である。しかも<「日本が好き」と言えるようになったのは、東日本大震災が最大の要因だった>。  震災がよかったといわんばかりの不遜ないいぐさ。が、いいたいことはわかります。日本人は自虐史観に染まっていたといいたいんでしょ。では、そのような史観に日本人が染まったのはいつだったか。  著者は<日本人を精神的に骨抜きにする>ことを目的としたGHQの占領政策と、それを引き継いだ日教組の活動のせいだという。戦後一貫して日本人は日本嫌いだったとおっしゃりたいようだが、だいいち日本人が先の戦争における加害者性に気づいたのはせいぜいベトナム反戦運動後の70年代以降のことである。  ほかにもおかしな言説が満載。教科書には<美しい天皇と皇族の姿>が紹介されていない(それは単なる趣味の問題)。日本には<為政者の権力闘争はあっても、住民が虐殺され、また玉砕するようなこともな>かった(じゃあ長島一向一揆や島原の乱は何なのだ)。安倍晋三の立ち位置こそが「中道」で、それを「右傾」と呼ぶのは<世の中全体が「左傾化」しているため>である(ではなぜ自民党が勝ち続けてきたのか)。  きわめつきはこれ。日本は国民主権の国というのは間違いで<天皇と国民が一体となった「君民一体」こそが、わが国の主権者の姿である>だって。いつの時代の人?  著者は「明治天皇の玄孫」で、最近は歌手の華原朋美さんがこの方をふったことでも話題になった。華原さんは賢明な選択をしたと思う。こんな差別的な本を書く人は、ねえ。
神国日本のトンデモ決戦生活
神国日本のトンデモ決戦生活 戦時中の日本は「トンデモ」な言説にあふれていた。早川タダノリ『神国日本のトンデモ決戦生活』はそれらを渉猟しまくり、いちいちツッコミを入れていくという、それだけの本である。なんだけど、ありとあらゆる印刷物から戦時の言葉をサルベージする情熱は半端ではない。 「八紘一宇」のスローガンの下でアジアへの侵略を進めていった日本。「大東亜戦争一周年」の特集を組んだ政府広報グラフ誌「写真週報」(昭和17年12月)に載った世界地図は連合国側と枢軸国側に塗り分けられ〈われわれはこの世界地図が枢軸色一色に塗り潰される日まで、断乎として戦ひ抜く決意を持つてゐるのだ〉という勇ましい文章が躍る。まるで〈世界征服をたくらむ悪の秘密結社の首領レベル〉。  婦人雑誌も負けてはいない。昭和19年の「主婦之友」には〈『台所の要塞化』こそ、その責任者たる主婦の喫緊の重要業務である〉。「婦人倶楽部」では〈今日は衣料も兵器です。私どもが新調を見合はせれば、それに要する人手も資材も兵器の方に廻して頂くことが出来て、大きなご奉公となるのです〉。「産業戦士」を教育するための『戦時安全訓』という本には〈大和魂にみがきをかけて生産戦を戦ひぬくことである〉という〈トンデモ精神論〉が掲げられ、習字には〈皇国ノ興廃コノ一戦ニ在リ〉などの言葉が選ばれる。〈アメリカ人をぶち殺せ〉〈アメリカ人を生かしておくな〉などの標語が普通の顔で雑誌を彩る。たしかにねえ。〈こんな神がかりぶりなのだから、やっぱり日本は負けるワケである〉。 「日本を、取り戻す。」という現政権のスローガンも現下の偏狭なナショナリズム運動も、これと同類だと著者は看破する。戦時中に猖獗をきわめた「日本主義」に対する批判が不徹底だったことが、今日の〈トンデモ系ナショナリズム運動〉を復活させたのだと。そうだよね。こういう文言は徹底的にあげつらい、笑いのめし、こきおろして殲滅しないと。
ヤンキー経済
ヤンキー経済 「ヤンキー」はきわめて定義のしにくい概念(実存?)である。が、「ヤンキー感覚」は日本文化の根幹にかかわるのではないかという指摘はすでにされていて(斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら』、難波功士『ヤンキー進化論』など)、この件には私は少なからぬ関心を抱いてきた。  原田曜平『ヤンキー経済』はそんなヤンキーの生態にマーケティングの観点からスポットを当てた本。ツッパリやチーマーなど「不良」のイメージが強かったかつてのヤンキーとはちがい、フレンドリーで反抗心の薄い今様ヤンキーを、著者は「マイルドヤンキー」と名づける。  マイルドヤンキーは地元(5キロ四方の小中学校の学区程度の範囲)が好き。都会は<人が多くて面倒な場>なので東京への憧れは一切ない。他人と乗り合わせる電車も大嫌いだから、片道わずか20分圏内にある新宿や渋谷も敬遠する。彼らにとって何より重要なのは、いつメン(いつものメンバー)で集まり、地元のファミレスや居酒屋やカラオケでだらだらすごすことなのだ。  かくて都下(西多摩郡日の出町)に住むあるヤンキー夫婦はいうのである。<日の出の若者にとって、イオンは夢の国。イオンに行けば、何でもできるんです>。な、なるほどなあ。家から2~3キロの距離にあり、無印良品も百均もスタバもマックもTSUTAYAも家電量販店もある大型ショッピングモールが彼らにとってはハレの場所なんだ。  好きな車は<大人数が快適に乗車することのできるミニバン>。将来の希望は〈地元で結婚し、家庭を築き、地元友達の家族同士、子供同士で平穏な生活を営むこと〉。  地縁を何より重んじ「いつメン」ですべてがまかなえる人生。明治以来、上昇志向を煽ることで築き上げた「近代」は完全についえたのである。そんな新保守層こそが新しい消費の主体だと博報堂に勤務する著者はいうのだが、提示された商品の例がショボいんだ。致し方あるまい。あっちはイオンの夢だからな。
帰ってきたヒトラー
帰ってきたヒトラー 現代のベルリンにヒトラーが復活した! ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー』(森内薫訳)はドイツで130万部のベストセラーとなったエンタメ小説だ。  よみがえった彼はさっそく道行く人々に邪魔にされる。「ちょっと、おっさん! 気をつけろよ! どこに目えつけてんだ!」。どうやら相手は<私がだれなのかわかっていなかった。ドイツ式敬礼はやっぱり行われなかったし>。それでも「私」ことヒトラーは礼儀正しく尋ねる。「総統官邸に行く最短の道を、今すぐに知りたいのだが」。「あなた、もしかして<TVトタール>のスタッフ? 人気バラエティー番組の?」。 <なにかが決定的に狂っている><人々は私のことをもはや、指導者として見ていない>。そう悟りながらも「私」ことヒトラーはめげない。なぜなら彼は凡庸といわれた無名の一上等兵からのし上がり<父なる祖国を最高の栄誉にまで導いた>記憶を背負っているからだ。  かくして彼は、持ち前の粘り強さを発揮し、「ヒトラーのそっくりさん」としてテレビに出演。ユーチューブにアップされた動画で火がつき、みるみる人気者になっていく。  本名を教えてと求められるたびにムカつきながらも「ヒトラー! アドルフ!」。先輩芸人に「お前は、そのヒトラーのクソ制服とわけのわからない小ネタでここまで来れたと思っているかもしれないけどな、はっきり言ってやるよ、ナチネタなんかぜんぜん新しくないんだ」と罵倒されても、「何百万人ものドイツ国民が、私を陰で……」と胸を張る。  小説は後半、彼が新聞の1面に載り、テレビで自分の番組を持ち、複数の政党に入党を求められ、本の執筆を依頼され、政治活動の再開を期すところまで行く。 「私はずっと前からヒトラーだ。その前に、私がいったいだれだったというのか?」。こういう爆笑小説が成立するのもドイツが戦後処理をちゃんとやってきた証拠。いまの日本じゃシャレにならんでしょ。
「いいね!」が社会を破壊する
「いいね!」が社会を破壊する 2012年、ある大企業が日本でいう会社更生法の適用を申請した。イーストマン・コダック。世界最大の写真感光材メーカーである。  そりゃ、そうでしょう。デジカメがこれだけ普及したらフィルムや印画紙のメーカーなんかひとたまりもないべ、と私たちは考える。だが、ことはそう単純でもないらしいのである。楡周平『「いいね!」が社会を破壊する』はそのコダック社に15年在職し、現在は作家として活躍する著者による警世の書。  コダック社が窮地に立たされたのは〈あまりにも確立されたビジネスモデル〉ゆえだったと著者はいう。1ロールのフィルムが売れるごとにフィルム代・現像料・プリント料と3段階の収益がついてくるシステムは同社を優良企業にしたが、2000年頃から市場に大変革が起こる。カメラ付き携帯電話の普及とブログ人口の増加である。これはデジカメの出現以上にインパクトのある出来事で、以来、人々は写真を撮りまくるも、三つの収益部門はすべて不要。街のカメラ店も見事に消えた。  新しい業態にさっさと移行すればよかったって? いやいや。<私がここで言いたいのは、企業自体の存続ではありません。そこで働く人たち、つまり個々人の雇用など、イノベーションの波に襲われたら最後、簡単に崩壊してしまう時代になったのだということなのです>。  同様の現象は、ネット書店に席巻されて中小書店が消えた出版業界でも、ネット配信でCDショップが消えた音楽業界でも観察できる。新聞もいずれ同じ道をたどるだろうし、コンビニも同じ運命にある……。  注意すべきは、これが単なるノスタルジー系の「昔はよかった」という話ではないことだろう。<少し前の時代まで、イノベーションは多くの雇用を産み、社会を豊かにするものを意味しましたが、今は全く違います>。雇用は崩壊し、知的労働にも対価を払わず<待ち受けているのは勝者なき世界>。技術革新の結果がコレかと思うとゾッとする。
爛
岸惠子『わりなき恋』でも、あるいは渡辺淳一『愛ふたたび』でもそうだけど、高齢になっても恋愛をし続ける(なぜそうしたがるのかはわからぬが)ための条件は「ナルシストであること」、これに尽きる。  瀬戸内寂聴『爛』の語り手、「わたし」こと上原眸は83歳の人形作家である。その彼女のもとに、年来の彼女の信奉者ともいうべき大江茜の訃報が届く。享年79。<80の老婆になるまでは生きていたくない>が口癖で<あたくしの美意識ですわ>とかねがね語っていた茜の死。眸は悟る。<茜は自殺したのだ>  こうして話は茜と出会った40数年前に遡り、手記や手紙をまじえつつ二人の恋愛遍歴を綴っていく。  茜は16歳までペルーですごし、若くして結婚するも二人の娘を夫のもとに置いて離婚した。その後、京都の資産家に雇われ、大原の別荘で16歳の息子「淳ちゃん」の家庭教師を務めるが、ある日<淳ちゃんにいきなり押し倒され、乳房を吸われてしまいました>。茜は解雇された。やがて<淳ちゃんが琵琶湖に沈んだという報せ>が届く。<淳ちゃんはこのわたくしが殺したのです>  一方、眸も年下の男との恋愛が原因で離婚した過去があったが、丹精した人形を火事ですべて失い、絶望の果てに死地を求めて出た旅先のペルーで運命の人、高峯と出会う。高峯はカメラマンだった。二人はたちまち恋に落ちるが、彼はチチカカ湖での撮影中に舟から転落。<高峯は、わたしの名を叫びながら水中に沈んでしまいました>。高峯は死んだ。<何という罪深い女でしょう>  眸と茜、それぞれのファム・ファタール自慢。この後もお盛んな情事が続き、あげく茜はいうのである。<あたくしは、男を殺す女に生れついているのでしょうか、みんな、次々死んでしまって>  唯我独尊こそが長生きの秘訣かもな。高級レディコミか、はたまたシルバー世代向きのハーレクインか。91歳になる作家の衰えない健筆ぶりと恋愛体質の発動ぶりに舌を巻く。

この人と一緒に考える

報道の正義、社会の正義
報道の正義、社会の正義 特定秘密保護法が強行採決され、NHKの会長があんなザマの昨今、報道はどうあるべきか。阪井宏『報道の正義、社会の正義』はこんな時勢にピッタリな1冊。「人命救助か報道か」「危険な取材に向かう時」など、「究極の二択」ともいうべき問いが次々と発せられる。  たとえば福島第一原発事故の際、各メディアは「ただちに人体に影響はない」という政府発表をそのまま報道する一方、住民に何も知らせず社員を避難させ、現地の人々を激怒させた。ではどうすべきだったのか。「命がけで取材エリアにとどまれ」と命令する会社はどこにもない。ただ、と著者はいう。〈「記者・カメラマンを避難させる」との自社判断を、あらゆる手段を使って地元自治体や住民に知らせることである〉。判断の基準や撤退後の報道体制も含めて説明するのが〈メディアのとるべき最低限のモラル〉だと。  インターネットが普及した現在、マスメディアの対応は後手に回りがちである。あてにならぬと踏んだ市民メディアが脱原発デモをヘリで撮影した。では新聞に利用価値はないのか。私なら、と著者はいう。〈見開き紙面をすべて使い、出来る限りのデモ参加者の顔写真を載せる〉。実名、年齢、出身地などの個人情報と原発再稼働に反対の理由も。〈匿名社会への抵抗こそが、ネット時代にマスコミ、特に新聞が果たすべき重要な役割〉だからだ。  橋下徹氏をめぐる部落差別問題の報道でしくじった「週刊朝日」に対するキツーイお達しも。〈はっきり言って読むに耐えない〉。  著者は北海道新聞の元記者。〈支配する側にかみつく。番犬のようにほえる。それが新聞本来の役割だ〉という主張にいまさらながら目が覚める。2月12日に国際的なジャーナリスト集団「国境なき記者団」が発表した「世界報道の自由度ランキング」で日本は59位までランクを落とした(12年は22位、13年は53位)。これ以上の愛玩犬化が進まないうちに、番犬よ、ほえろ。
日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ
日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ 先の都知事選で田母神俊雄候補の応援演説に立った際、他候補を「人間のくず」「売国奴」と呼ぶなど、発言が物議をかもしている作家の百田尚樹氏。NHKの経営委員なんかになってしまったばっかりにね。もっとも首相も本当は都知事選で田母神候補を応援したかったにちがいない。この本を読めばわかる。  安倍晋三+百田尚樹『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』は、雑誌「WiLL」での対談を中心に2人の仲良しぶりを披瀝した「安倍ヨイショ本」である。2人は自民党が野党だった2012年に対談で知り合って意気投合。〈何を隠そう、これほど有名になられる前から私は百田さんの作品の愛読者〉と安倍がいえば、〈安倍政権の誕生によって、ようやく明るい希望が見えてきました〉と百田が応えるといった案配で、気持ち悪いほどの相思相愛ぶり。  ことに首相に対する作家の心酔の仕方は尋常ではない。〈優れた歴史観と国家観、政治的な手腕と能力は自民党随一〉。〈安倍晋三から受けたもう一つの印象は、「自分の言葉を持っている政治家」というものだ〉。第1次安倍政権の退陣は〈私たち「国民の敗北」であった〉。しかし〈安倍晋三は死ななかった。雌伏の5年を経て、以前よりも遥かに強靱な政治家として舞い戻ってきた〉。  そこまでいうなら、勝手に安倍の評伝でも書けばいい。なにしろ彼は首相のいいたいことを代弁するのも得意なのだ。〈「戦後レジーム」というのはやや抽象的表現ではあるが、私自身は「戦後の自虐史観からの脱却」と解釈している〉。〈従軍慰安婦が70年代以降、左翼系マスコミ、反日団体、一部の在日韓国・朝鮮人たちによって、いかに狡猾に、また巧みに捏造されてきたか〉。  発想法も好む用語も安いウヨクのそれってところが笑わせる。官邸はいっそ百田氏をスピーチライターに起用してはどうか。優秀な作家の手が加われば「アンダーコントロール」や「積極的平和主義」の意味もきっと明瞭になるだろう。
企業はなぜ危機対応に失敗するのか
企業はなぜ危機対応に失敗するのか パシャパシャと焚かれるフラッシュとシャッター音の中で、企業のトップが「申し訳ありませんでした」と頭を下げる。あまりに見慣れた光景。しかし彼らには謝罪しなければならない理由が本当にあったのか。  郷原信郎『企業はなぜ危機対応に失敗するのか』の副題は「相次ぐ『巨大不祥事』の核心」。企業のコンプライアンスのあり方を問いつつ、メディアや消費者の思い込みにも「待った」をかける好著である。  俎上に上げられるのは、たとえば昨秋騒ぎになった「食材偽装」問題だ。「芝エビ」と表示されたメニューにバナメイエビを使っていた、「ビーフステーキ」に牛脂が注入されていたことなどが「偽装」とされ、阪急阪神ホテルズの社長は辞任。ことは大手百貨店にまで飛び火した。しかし、と著者はいうのである。厳密な表示にこだわればこだわるほど料理の価格差は拡大し〈一握りの富裕層以外の多くの庶民は、「牛脂注入牛肉使用」などと表示した安価なビーフステーキを、みじめな思いをしながら食べるしかなくなるのである〉。それが望ましい社会かと。 「食材偽装」にはいくつもの誤解がからんでいた。金融業界全体を巻きこんだみずほ銀行の「暴力団員向け融資」問題にも、商品の自主回収に発展したカネボウ化粧品の「白斑被害」問題にも誤解があって……といわれると「そんなバカな」と思うでしょ。でも、そうなのだな。 〈問題を単純化し、「新聞やニュースの見出しにしやすい表現」にあてはめようとする、そして、一度不祥事に対する批判がマスコミ全体に拡大すると、その後に新たな事実がわかっても後戻りはしない〉  多くの企業はここで事態が平時から有事に変わったことが理解できずに自爆する。要はメディアも消費者もバカであることを企業は知らなきゃダメだという話である。とはいえ〈マスコミの批判は「不可逆的」である〉とは犯罪報道や事件報道にもいえること。消費者のメディアリテラシーも問われているのだ。
穴
新潮新人賞を受賞した小山田浩子のデビュー作『工場』は、巨大すぎて全貌が把握できない工場で働く若者たちをシュールな逸話をまじえて描いた秀作で、彼女は絶対「次に来る」作家だと思っていた。そして早くもキターッ!! 今期芥川賞受賞作『穴』は工場ならぬ家を舞台にした小山田ワールド全開の作品である。  語り手の「私」こと松浦あさひは、夫の転勤にともなって、夫の実家の隣に越してきた。なにかと世話を焼きたがる夫の母。専業主婦としての退屈な日常。そして、ある日、川の土手で奇妙な「黒い獣」を追いかけて草むらに足を踏み入れた途端……。 〈私は穴に落ちた。脚からきれいに落ち、そのまますとんと穴の底に両足がついた。私は唖然として、唐突に私の視線よりもずっと高くなった草を見上げた。獣の尻は完全にその間に隠れ、しばらくがさがさと音がしていたがほどなく止んだ〉  おっと、まるで『不思議の国のアリス』。とはいえ白ウサギを追いかけて穴に落ちたアリスがそのまま不思議の国にワープしてしまったのに対し、彼女が落ちたのは胸の高さくらいの穴。隣家の主婦に引っ張り上げられ日常の側に帰ってくる。  後日「私」は夫の兄だと名乗る人物に出くわす。彼はもう20年も庭の物置の中で暮らしてきたという。〈今風に言うとヒキコモリとかニートとかそういう類ですよ〉  穴に落ちたと語る「私」に〈馬鹿だね〉と彼はいった。〈何だい、お嫁さんは不思議の国のアリスなの?〉。そしてもう一言。〈僕ぁ穴に落ちた後の方の兎ですよ〉  動物変身譚は昔からある物語のパターンで、近代小説においてもカフカ『変身』はセールスマンが毒虫に、中島敦『山月記』は詩人に憧れる官吏が虎になるお話だった。デビュー作でも工場に巣くう労働者のなれの果てのような鳥や動物たちを描き出した小山田浩子。もしかして寓話? いーえ。現代社会にはね、穴があっちこっちに開いてるの。あなたも穴の中で暮らしてるのかもよっ。
炭水化物が人類を滅ぼす
炭水化物が人類を滅ぼす 気がついたら70キロあった体重が半年で11キロ減っていた。夏井睦『炭水化物が人類を滅ぼす』は人もうらやむダイエット成功本である。〈中年オヤジでもスリムに変身できる方法を紹介する〉とお医者さんである著者ご自身も胸を張る。  方法はとても簡単。糖質を摂らない。ほぼそれだけ。具体的には主食(米・パン・麺など)をやめる。砂糖の入った食品もやめる。日本酒を焼酎に変える。でもカロリー制限はなし。唐揚げもフライもオッケーだ。  すると、あら不思議。糖質制限をした結果、体重が減っただけではない。高血圧が治った。中性脂肪やLDLコレステロールの値が正常に戻った。二日酔いをしなくなった。昼食後も眠くなくなった。イビキと睡眠時無呼吸症候群も治った……。  ええーっ、ほんと? あやしくない? だいいち炭水化物はタンパク質や脂肪と並ぶ「三大栄養素」でっせ。糖質なしでは脳も働かないでしょ。と思いますよね。私もそう思いました。しかし、ここから先が本書の真骨頂。三大栄養素のまやかしやカロリー神話の誤りにはじまり、草食動物と肉食動物の消化吸収のメカニズムとか、狩猟採集と農耕の効率の問題とか、話はやがて地球規模の文明論にまで及ぶのである。  人の身体にとって必須脂肪酸と必須アミノ酸は外から取り入れるしかないが、炭水化物(糖質)はなくても生きられる。ブドウ糖は体内でタンパク質から合成できるからだ。  ではなぜ人は炭水化物(糖類)を求めるのか。それは酒やタバコと同じ嗜好品だから。〈血糖の急激な上昇が、食後の陶酔感と幸福感をもたらし、その後に血糖値が低下し始めると、体は「血糖切れ」状態となる〉。早い話が人類はみな糖質依存症。〈糖質を要求するのは「体」ではなく「心」だ〉といわれると超納得。  しかも、その目で見直せば、レストランもコンビニも、世は炭水化物だらけ。でもね、心の栄養だからこそ炭水化物(糖質)は文化を生んだわけで。断糖はむずかしいっす。
常識から疑え! 山川日本史
常識から疑え! 山川日本史 歴史教科書というと、とかく問題になるのは慰安婦や沖縄戦など「歴史認識」の問題である。右派が「自虐史観」と呼んで攻撃する論争の対象は地区ごとに採択される中学校の教科書で、高校の教科書が俎上にのることはめったにない。  倉山満『常識から疑え! 山川日本史』は、高校の日本史で最大のシェアを誇る山川出版社の教科書をクサした本である。お世辞にもお上品な本ではない。が、序章を読んだだけで年来の疑問が解けてしまった。 〈一、教科書の編纂者は、とにかく文句をつけられるのがイヤ。/二、二十年前の通説を書く。/三、イデオロギーなど、どうでもいい。/四、書いている本人も何を言っているのかわかっていない。/五、下手をすれば書いていることを信じていない。/六、でも、プライドが高い権威主義的記述をする。/七、そして、何を言っているのかさっぱりわからない〉。以上、本書がいう「歴史教科書を読み解く七つの法則」。  どうりで! 私も高校では山川の教科書で勉強しましたよ。『もういちど読む山川日本史』も買いました。しかし役に立ったためしはない。普通の読解力で理解できるレベルの日本語ではないからだ。というより、これは史観の問題かな。歴史教科書には史観がないのだ。  英米韓の教科書を例にとり、〈疑わしきは自国に有利に〉〈やってもいない悪いことを謝るな〉〈本当にやった悪いことはなおさら自己正当化せよ〉と主張する著者。すごいこと言うなあとは思いつつ、それでも〈世界史の視点を欠いた無味乾燥、理解困難な事実の列挙〉のせいで〈日本人は最低限の教養さえ身につけることができなくなっています〉という事実は認めざるを得ない。  本書は上巻で3月には下巻も発売予定という。私の立場は著者と正反対だと思うけど、ここを踏まえなければ何もはじまらないと思った次第。問題は〈思想の「左右」ではないのです〉〈山川日本史はアカでさえない。ただのバカなのです〉。

特集special feature

    自発的隷従論
    自発的隷従論 〈これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただひとりの圧政者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどのようなわけか〉  そうだよな、人々が自ら進んで権力者に隷従(れいじゅう)するのはなぜなのか。 〈その者が人々を害することができるのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからにほかならない〉  文庫オリジナルで11月に発売されたエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』(西谷修監修・山上浩嗣訳)の一節である。それにしても、この言葉、そしてこの書名! ブラック企業に勤める社員。とんでもない政治家に投票しちゃう選挙民。まるで現在の日本社会の話のようだ。  ところがこれは16世紀、日本でいえば戦国時代の書なのである。ラ・ボエシは1530年生まれ。フランスの宮廷に勤める役人で、32歳の若さで没した。この論文を書いたのは16歳か18歳のとき。モンテーニュの親友だったことで辛うじて名前が知られているだけであり、ラ・ボエシ自身は民衆蜂起を煽ったわけでも何でもなかった。だけど、どうでしょ、この言いぐさ。 〈自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世のなかには、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは!〉  フランス革命の時代に脚光を浴びたのも納得がゆく。無垢なる人間観察の文章は、だからこそ後世の人々に多大なインスピレーションを与えた。本書の付録の論文でシモーヌ・ヴェイユはスターリニズムと重ねてこれを読み、監修と解説を担当した西谷修はここに今日の不平等な日米関係を見る。たとえば、ほら、こことか。〈人はまず最初に、力によって強制されたり、うち負かされたりして隷従する。だが、のちに現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる〉 〈自発的隷従の第一の原因は、習慣である〉。460年も前の10代の言葉にいちいちグサッとくるって何?
    勝ち抜く力
    勝ち抜く力 2013年1月、この欄の初回で取り上げたのは、猪瀬直樹『解決する力』(PHPビジネス新書)だった。それから1年。まさかこんなことになると誰が想像しただろう。  知事職の辞任表明の前日に発売された『勝ち抜く力』はいわば先の本の続編だが、内容は徹頭徹尾、東京オリンピック・パラリンピックの招致に成功するまでの手柄話だ。本としては概して退屈、役にも立たないのは副知事に就任した頃からの著作で実証済み。ただ、本書には彼の慢心の源の一端が垣間見える。  五輪招致のプレゼンテーションは〈作家として、日本人とは何か、東京とはどんな都市かをずっと考えつづけてきた結果が実を結んだ〉のであり、〈これまでの僕の人生は、このためにあったのかと思うぐらい〉だと自画自賛する前知事。  五輪評価委員会の東京視察の際には、皇太子への表敬訪問と高円宮妃の晩餐会出席を実現させ〈確かな手応えだった〉。スポーツ界の体罰問題は、乙武洋匡氏と山口香氏を東京都の教育委員に任命、〈東京都は障害者問題、柔道の体罰問題に真剣に向き合っていく〉姿勢を見せたため、〈招致活動に大きく影響することはなかった〉。「イスラム圏は喧嘩ばかりしている」という自らの「不適切発言」も、トルコ大使を訪問することで〈もともと友好な両国の間に、わだかまりはなかった〉。福島第一原発の汚染水漏れ問題は「状況はコントロールされている」という〈安倍晋三首相の力強い言葉で解消した〉。 〈説得力は数字だ。ファクトとロジックで相手を口説くのである〉と豪語しつつ、氏のやり方は常に人脈頼みのなあなあ作戦。スポーツ界はもちろん、皇室から首相まで自身のコントロール下に置くことができたと錯覚したのだろう。〈不可能な課題を克服するときに、ふつうのやり方をしていてはダメだ〉が持論の猪瀬氏。『勝ち抜く力』というより、これは『出し抜く力』である。今までの経験から5000万円問題も楽勝と考えたのか。あまりにも楽観的だ。
    世界と闘う「読書術」
    世界と闘う「読書術」 「思想を鍛える一〇〇〇冊」という副題のついた佐高信+佐藤優の対談集『世界と闘う「読書術」』は名言奇言の宝庫である。特におもしろいのはこぼれ話的な雑談の部分。  たとえば〈社長あるいは専務や常務、部長など要職にある人に『巨人の星』のファンが多い企業はちょっと要注意なんですよ〉(佐藤)。〈人知を超えたところに何かあると思いたがるという〉(佐高)。〈会社が危機になったとき、思い込みと試練で物事を解決しようという人たちがいますよね〉(佐藤)。〈大リーグボール養成ギプス? とか?〉(佐高)。  これは戦後、GHQが抹殺した『小説日米戦争未来記』という1920年の本の話。数多く出版された〈この頃の日米戦争物は結果的に、読者にそんな気分を刷り込んだんじゃないかと思うんです〉(佐藤)。人々の戦意昂揚の陰にそんな罪深い本があったとは!  あるいはヒトラーは読書家だったという話。〈哲学書とか、そういうのもかなり読んでいる?〉(佐高)。〈二級哲学書、通俗書をよく読んでいます〉(佐藤)。〈「すぐわかる、誰でもわかる!」とか〉(佐高)。〈そういう感じです〉(佐藤)。ああ、ねえ。  かと思えば〈丸山眞男の雰囲気というのは(略)今の感じだと池上彰さんに近いと思うんです〉(佐藤)なんていっちゃったり、首相のことも話題に上ったり。〈安倍晋三がNHKの大河ドラマの「八重の桜」を見て感激しているっていうんです。(略)会津と長州は天敵だという近代史の常識を安倍は全然知らないんだって〉(佐高)。〈きっとそういう歴史にあまり関心がない人なんですね〉(佐藤)。まさかホントか?  かくのごとく博覧強記な2人だが、文学を語る段ではやや失速。〈小説を読まない左翼が共産党なんだよね〉(佐高)。〈そう思います〉(佐藤)。といいつつ話題の中心は妙な方向に傾いていき、必読書リストには遠藤周作が10冊、渡辺淳一が6冊。  こういうのも合わせての1000冊だから必読書は話半分ってことで。
    真・政治力
    真・政治力 自らのブログに「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」などと書き、大反発を買った自民党の石破茂幹事長。特定秘密保護法案を通したいという下心があるとはいえ、真意は奈辺にあるのだろうか。  今年6月に出版された著書『真・政治力』の中で、石破氏は「党改革の指針」のひとつとして〈永田町、霞ヶ関から出て、広く国民の声に耳を傾ける自民党になる〉ことを挙げている。なんだ、わかってんじゃんと思いきや、〈若い頃は、本当にいつも地元である鳥取に帰っていました〉。氏にとって〈国民の声に耳を傾ける〉とは選挙区の収穫祭などのイベントに顔を出すことなのだ。  一方、氏の市民運動に対する感覚は菅直人元首相を評した言葉に表れている。〈菅総理はすべて「反対、反対」と叫べば済んだ市民運動家の体質を引きずって、日本のトップに立ってもまだ「反対」と言えるターゲットを探していたのでしょう〉。氏にとって、市民運動とは〈すべて「反対、反対」と叫べば済〉む無責任な人々の群れなのである。  いかにも自民党の政治家らしい発想。これじゃあデモとテロの違いが理解できないのも道理だわ。  とはいえ石破氏にも政治家としての信条はある。それは〈「親切、丁寧、正直」を心掛け〉ること。〈今までわれわれ政治家は、自分が嫌われることを極端に避けてきたのだと思います。でも、嫌われたっていいのです。国民に本当に伝えなくてはいけないことは、どんなに耳が痛い話であろうと、どんなに自分が嫌われようと、政治家が責任を持って正しく伝える必要がある〉。「デモはテロに等しい」という言葉は、たとえ国民に嫌われてもぜひとも伝えなければならない真実だったのだな。  石破騒動の後、参院議員会館前のデモに参加した女性の手には「このだらず(馬鹿者)が! おめえは鳥取の恥だ!」と書かれたポスターがあった。嫌われてもいいと公言する幹事長。さぞや本望だったことだろう。
    そして、メディアは日本を戦争に導いた
    そして、メディアは日本を戦争に導いた 希代の悪法・特定秘密保護法案が今国会で成立しようとしている。1年前の衆院選で安倍自民党を大勝させた結果がコレである。どんだけ歴史に学ばない国なんだろう。  半藤一利+保阪正康『そして、メディアは日本を戦争に導いた』はこのタイミングでこそ読んでおきたい本。昭和史の碩学2人が戦争に突入するまでのメディアの状況を語り合った、戦慄を誘う対談である。  明治の初期には反政府的だった新聞は、日露戦争を境に体制に擦り寄っていく。〈日露戦争で部数が伸びたことは、新聞各社の潜在的な記憶として残ったんですね〉(保阪)。昭和6年の満州事変で新聞が一朝にして戦争協力の論調に変わったのも〈商売に走ったんですよ〉(半藤)。  主たるテーマは、戦前の日本がいかなる過程を経てモノ言えぬ国に変わっていったかだ。昭和7年の5・15事件で「義挙」の名の下にテロを容認する雰囲気が醸成され、昭和8年には新聞紙法が、9年には出版法が強化されて検閲に拍車がかかる。国定教科書が改訂され〈ススメ ススメ ヘイタイ ススメ〉という文言が登場したのも昭和8年。教育と情報の国家統制が進み、特高警察の設置によって言論が封殺され、一方では暴力が横行する。ジャーナリズムはそれに〈全く乗っかっちゃった〉(半藤)。〈尖兵(せんぺい)になったという側面さえありますよね〉(保阪)。  ゾッとするのは昭和初期と現在との驚くべき類似である。教科書検定制度の見直し、内閣法制局やNHKへの人事介入、昭和15年の皇紀2600年祭にも似た主権回復の日の式典。幻に終わった東京五輪。  歴史を顧みれば、ことは特定秘密保護法案による情報統制に終わらないように思えてくる。〈対米戦争を始めてしまったとき、軍の指導者には知的な訓練のできている人はいなかった〉(保阪)。軍人や官僚だけでなく〈日本人全体がバカだったと思うんです。ジャーナリストもその中に入ります〉(半藤)という言葉を私たちは噛みしめるべきだろう。
    マルクスが日本に生まれていたら
    マルクスが日本に生まれていたら いやいや、世の中にはまだまだスゴイ本が隠れているものである。出光佐三『マルクスが日本に生まれていたら』。著者は今年のベストセラー、百田尚樹『海賊とよばれた男』のモデルになった出光興産の創業社長(81年に95歳で没)で、本書もそれに便乗したらしき企画。出光興産社長室での勉強会をもとに、66年に出版された本の新装版だ。  社員と「店主」と呼ばれる出光との問答形式で本書は進行する。  出光は「共産主義のよいところは採れ」といってきたらしい。なぜかと問う社員に店主は答える。資本家の搾取をなくそうとしたマルクスと「黄金の奴隷になるな」から出発した出光。〈動機と目標という点では、マルクスとぼくは同じことじゃないかね〉。すると、両者の違いは? 〈マルクスは「物の国」に生まれたから、物の分配をめぐって対立闘争する道を歩かせられたということであるし、ぼくは「人の国」に生まれたから、物に関してはぜいたくを戒めて、お互いに手を握り合って仲良くするという互譲互助の道を歩かせられたと、このようにぼくは思うな〉。  しかし、マルクスと出光では幸福に至る道筋が対照的だ。〈西欧民族と日本民族の違いということになると思うね。別の言葉で言えば、「物の国」と「人の国」の違いとも言えるがね〉。唯物史観とは? 〈「物の世界」から「人の世界」を律しようとするところに、弁証法的唯物論の誤りがあると思うね〉。労働力の搾取から生まれる利潤とは〈「物の国」の考え方だと思うね〉。そして結論。〈出光のあり方や日本の互譲互助・和の道などをマルクスが知ったならば、喜んだのじゃないかと思うんだ〉。  出光興産、立派である。私だったら「社外秘」のハンコを押して門外不出にする。ちなみに出光はマルクスを一冊も読んでいない。読まずに語る「物の国」と「人の国」。まるで小林克也と伊武雅刀の往年のラジオ番組「スネークマンショー」。マルクスも草葉の陰で「あちゃあ」と頭を掻いているだろう。

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