AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL

BOOKSTAND

蝶々の舞う世界で――マシュー・チョジック『マシューの見てきた世界 人生に退屈しないためのとっておきの21話』
蝶々の舞う世界で――マシュー・チョジック『マシューの見てきた世界 人生に退屈しないためのとっておきの21話』 僕はとあるシンポジウムのあとに行われた懇親会で、彼のスマホを渡されて「はーい。チーズ」と言いながら撮影ボタンを連写していた。被写体はそのシンポジウムで議題でもあり登壇者のひとりでもあった小説家の古川日出男さんと、このスマホの持ち主のたぶんアメリカ人の男性だった。彼は見ていてこちらが心地よくなるとびきりのスマイルで古川さんと一緒に記念撮影をした。僕は自分の名刺を渡して、彼にも挨拶してもらって名前を聞いたはずだが、いまいちはっきりしていなかったため、撮影しながらこの人は出版業界の翻訳の人とか、海外からもこのシンポジウムに登壇する翻訳者や大学の先生も来ていたから、その界隈の人なのだろうと勝手に思っていた。翌日あたりに彼からツイッターでフォローされて、マシュー・チョジックという名前で、テレビやラジオにも出てタレント活動をしながら、大学の講師をしつつ出版社も経営している多才な人だと知った。  というのがこの『マシューの見てきた世界 人生に退屈しないためのとっておきの21話』(以下『マシューの見てきた世界))の著者であるマシューさんとの出会いだった。偶然だがいくつか知り合いの共通点があった。この本の帯コメントを書いている園子温監督や、シンポジウムにも登壇されていた柴田元幸さん、あいにくニコラス・ケイジさんと僕は知り合いではないのだが、マシューさんが出演していたNHKラジオ『英語で読む村上春樹』には、園さんのスタッフ「アンカーズ」だった友人が関わっていた、という風に。そして、最初にお会いしたきっかけである古川日出男さん、と勝手に親近感がわいた。実はこのエッセー集を読むきっかけは、知り合いがいて親近感を持ったことだけではなかった。『マシューの見てきた世界』がPヴァインの「ele-king books」というレーベルから刊行されているということも大きかった。  去年『アンダー・ザ・シルバーレイク』という映画を三回映画館に観に行った。内容は都市伝説を扱ったものであり、僕としてはドンピシャだったのだ。そこから連想ゲームが起きた。これを日本でやるなら青山と赤坂を舞台にして、映画同様に日本の芸能史や音楽業界なんかを持ち出して、ヒントや暗号が音楽や映画なんかに潜ませてあるという設定はどうだろうか。例えば、阿久悠の歌詞だとか。主人公が謎を解決するために訪ねる場所には、このミレニアムが始まった時に鳴り響いていたレディオヘッドのアルバム『Kid A』のポスターを見かけることになるというイメージ。  『Kid A』にはもうひとつ双子の兄弟のようなアルバム『Amnesiac』があって、双生児的な世界観というニュアンスが感じられる。双子的な世界、もうひとつの可能性世界という意味ではアメリカのSF作家、フィリップ・K・ディックの小説がある。ディックには双子の妹がいたが、生まれてすぐに亡くなってしまった。彼の小説はネット社会やSNSが当たり前になる世界を予見しているような、ひとりの肉体の中に様々な人格(いくつものアカウントを使い分けるように)があり、個人とは、向き合う世界や人に対して分裂症のように、あるいは多重人格のように世界に接していくことになる予言のように、読めなくもないのだ。  それから『Kid A』と『Amnesiac』を十数年ぶりに改めて聴き始めた。21世紀が来た頃に聴いていた時よりも新鮮でありながらより素晴らしいアルバムに感じられた。きっと、僕自身が変わったこともあるのだろう。そして、世界中で大きな災害が至るところで起きていたし(「氷河期が来るぞ」という歌詞を想起させる)、経済運動も強者や富む者がより豊かになるようにシフトしているからだろう。発売当時はどこか怖さがあった。しかし、現実世界で僕たちはそれを当然のものとして受け入れながら生きてきたからか、鈍感になったのか。それでも音楽は音楽として鳴り響いて、聴き手である僕の身体を揺らしていく。今の自分の感覚と彼らの鳴らす音は以前よりも非常によりシンクロできるものになっていた。何度も何度も聴いた。  マーヴィン・リン著『レディオヘッド/キッドA』という本が「ele-king books」から刊行されていたので読んだ。そして、それから数日後に同じレーベルから出たマーク・フィッシャー著『わが人生の幽霊たちーーうつ病、憑在論、失われた未来』(以下『わが人生の幽霊たち』)という本を書店で棚差しになっているのを発見した。タイトルに惹かれた。このレーベルの書籍には背表紙の部分に「ele-king books」のロゴがあるから、ああ、『レディオヘッド/キッドA』と同じところからだと思った。  すぐには買わずに、後日違う書店で購入する際に著者のマーク・フィッシャーの前作にあたる本『資本主義リアリズム』も一緒に購入した。こちらの本の装丁はレディオヘッド『Hail to the Thief』とそっくりなので、前に何度も見ていて記憶に残っていた。順番通りに『資本主義リアリズム』を読み始めた。そこに書かれていたもので僕がこの10年ぐらいずっと疑問に思っていたことが解けたような気がした。 「当初の見た目(そして希望)とは裏腹に、資本主義リアリズムは、二〇〇八年の信用恐慌によって弱体化されたのではない。(中略)二〇〇八年にたしかに崩壊したのは、一九七〇年代以来、資本蓄積が隠れ蓑にしていたイデオロギー的枠組みである。銀行救済の後、新自由主義はいかなる意味でも信用(クレジット)を失った。しかしこれは、新自由主義が一夜にして消えたということではない。むしろ反対に、その前提は依然として政治経済を席巻するのだが、それはもはや、確固たる促進力をもつイデオロギー的プロジェクトの一環ではなく、惰性的な死に損ないの欠陥(default)として、そこに存在し続けるのだ。」  という箇所を読んで、全世界的に「死に損ないの欠陥」が存在し続けるメタファとしてゾンビ映画やゾンビを題材としたものがミレニアム以降に作られて全世界的にヒットしたのだと僕には思えた。  漫画『アイアムヒーロー』や韓国映画『新感染』もだが、去年は『カメラを止めるな!』のモチーフがゾンビだったこと、そこで描かれるゾンビは現在の社会における信用(クレジット)を失った新自由主義の成れの果てなのかもしれない、と。  『わが人生の幽霊たち』と同じ「ele-king books」から『マシューの見てきた世界』が出ると知ったのは、マシューさんのツイートだったように思う。このエッセーを読むと、彼が出会う人との関係性においてユーモアを忘れずに、人生をたのしんでいることが伝わってくる。それは前述したようなゾンビが蔓延する世界とは真逆なものだろう。  グローバル経済や新自由主義が拡大していけば、個人はより国境や境界線なんかを越えて、より自由にもっと幅広く枠組みなんかを無視して世界中の人と交流していけるはずだった。だが、実際の世界ではそうできない人たちの怨念のようなものが吹き溜まりになって、いろんな悪意や不満がSNSをはじめとして暴発しているように思える。差別主義者が台頭するのはそれも関係しているはずだ。  マシューさんの生き生きとした、国も飛び越えていろんな人と交流する姿は羨ましくもあり、とても読んでいてたのしい気分になる。彼の人との関わり方は、僕らがどこかで期待している、なりたいと願っている人と人との付き合い方のように思えてくる。そこには人への興味と信頼、そして彼の他者への愛と希望があるからだろう。  日本に住んでいる時の視線、世界中を旅したりする時の視線。それらはアメリカ人である彼の視線ではあるけど、当然ながらマシュー・チョジックという個人のものだ。21の物語は彼が体験した日常を綴っている。読んでいると気持ちがあたたかくなってくるのは、彼の人柄があふれでているからだろう、その世界への関わり方と視線が。世界から見た日本、日本から見た世界、どこに立場や足場を置くかで見え方は当然ながら変わってくる。常識も非常識に反転する。当たり前だと思ったことは当たり前ではなくなる世界がある。  マシューさんが出演しているテレビ番組『世界まる見え!テレビ特捜部』でのトレードマークのような蝶ネクタイ。その蝶ネクタイがほんとうの蝶々になって日常をさまざまな角度から捉えていく。そこには現実への興味と自分ではない人たちへの尽きない希望があるのだろう。  蝶々は反転する世界をひらひらとたのしそうに舞いながら、時折花の蜜を吸いにやってくる。その花はいろんな種類があって、味も花びらの色も違う。吸っているとその周辺でちょっとした事件が起きる。蝶々が羽ばたくと舞う鱗粉の鮮やかさのような21話をおたのしみあれ。 文/碇本学(Twitter : @mamaview)
【「本屋大賞2019」候補作紹介】『ある男』――愛した人の過去が偽物だったとしたら?
【「本屋大賞2019」候補作紹介】『ある男』――愛した人の過去が偽物だったとしたら? BOOKSTANDがお届けする「本屋大賞2019」ノミネート全10作の紹介。今回、取り上げるのは平野啓一郎著『ある男』です。 *******  愛した人の過去が"偽物"だったとき、自分の愛という感情が"本物"といえる自信はあるか――。平野啓一郎さんの新作小説は、そんな愛にとって過去とは何なのかを問う作品です。  里枝は前夫との長男を引き取り、14年ぶりに戻った故郷の宮崎で大祐と出会い再婚。新たに女の子を授かり家族4人で幸せに暮らしていました。しかし、林業に従事する大祐は、39歳の若さで伐採した木の下敷きになりこの世を去りました。  大祐が宮崎にやってきたのは35歳のとき。未経験で林業に携わり社長が敬服するほど生真面目に働く好青年でした。その素性を詳しく知る者はいなかったものの、地元に根付く文房具店の一人娘である里枝と結婚したことから、過去を詮索する者はいませんでした。  大祐は生前、里枝には自分の素性について「群馬県の伊香保温泉にあるとある旅館の次男坊」と打ち明けていました。家族との間に確執を抱えていたといい、万一のときは「群馬の家族には絶対に連絡しないでほしい、死んでからも決して関わってはいけない」と聞かされていましたが、里枝は一周忌を迎えたとき、その忠告を破ってしまいます。  物語は里枝の知らせを聞き、大祐の兄である恭一が宮崎を訪れてから急展開を迎えます。大祐の遺影を見た恭一は、「どなたですか?」と耳を疑うような言葉を発したのです。里枝が愛した大祐という男性は、"大祐になりすました誰か"だったのです。  里枝の前夫との裁判の縁で、弁護士の木戸章良(あきら)が、その「ある男」の過去について調査を開始します。すると、「谷口大祐」は偽名ではなく戸籍上に存在し、彼が語った過去も事実だったことが判明。一体どういうことなのでしょうか。木戸は自問します。  「現在、誰かを愛し得るのは、その人をそのようにした過去のお陰だ。(中略)けれども、人に語られるのは、その過去のすべてではないし、意図的かどうかはともかく、言葉で説明された過去は、過去そのものじゃない。それが、"真実の過去"と異なっていたなら、その愛は間違っているものだろうか?」(本書より)  「ある男」とは何者なのか、ミステリータッチでその真相が描かれます。"真実の過去"にたどり着いたとき、それでも人は変わらず愛することができるのでしょうか。愛に過去は必要なのかを考えさせられる一読の価値ある作品です。
本がスポーツ観戦や生活の基盤に影響を与えてくれた------アノヒトの読書遍歴:カルロス矢吹さん(後編)
本がスポーツ観戦や生活の基盤に影響を与えてくれた------アノヒトの読書遍歴:カルロス矢吹さん(後編) 作家、イベントプロデューサー、日本ボクシングコミッション試合役員、など多岐にわたってグローバルな活躍を続けるカルロス矢吹さん。ノンフィクション作品をよく読むそうで、海外へ行く際は、石田昌隆さん著『黒いグルーヴ』を読むんだそうです。そんなカルロスさんに、前回に引き続き、おすすめの本について伺いました。
ノンフィクションを読むようになって海外の面白さに気づいた------アノヒトの読書遍歴:カルロス矢吹さん(前編)
ノンフィクションを読むようになって海外の面白さに気づいた------アノヒトの読書遍歴:カルロス矢吹さん(前編) ノンフィクション作家として活動するカルロス矢吹さん。大学在学中に、海外の音楽フェスティバルでスタッフとして働いたことをきっかけに、日本と海外を往復しながら執筆活動を行っています。これまで、世界を題材とした様々な著書を手掛け、2014年には地中海に浮かぶ島をモチーフにした『のんびりイビサ』、2015年には『北朝鮮ポップスの世界』を執筆。今年1月には『アフター1964東京オリンピック』を上梓しました。そんなカルロスさんは、普段はどんな本を読んでいるのでしょうか。日頃の読書生活について伺いました。
【「本屋大賞2019」候補作紹介】『愛なき世界』――「葉っぱラブ」リケジョに恋する男性の片思いは成就する?
【「本屋大賞2019」候補作紹介】『愛なき世界』――「葉っぱラブ」リケジョに恋する男性の片思いは成就する? BOOKSTANDがお届けする「本屋大賞2019」ノミネート全10作の紹介。今回、取り上げるのは三浦しをん著『愛なき世界』です。 *******  『舟を編む』『風が強く吹いている』など、私たちに専門的分野の知られざる世界や、夢に向かって一生懸命になる大切さを教えてくれる三浦しをん作品。本書『愛なき世界』もまた、そうしたエッセンスが詰まったステキな小説です。  今回、描かれるのは「植物学の研究」と「愛」。東京・文京区にあるT大学のそばに店を構える洋食屋「円福亭」で働く見習い料理人・藤丸陽太とT大学の生物科学研究室との交流から、植物学や研究に熱中する研究者たちの姿が描かれます。殺し屋のような見た目の教授や、イモにゾッコンの老教授など個性的キャラクターも物語を引き立たせます。  物語は客として来たT大学教授の松田が、円福亭に研究室へのデリバリーを頼むことから動き出します。配達先で藤丸は、自分より少し年上、20歳半ばくらいの女性大学院生・本村と出会い、大きく心を揺さぶられます。  本村は黒髪を一つに束ねた髪型に、Tシャツにジーンズにゴム草履という飾り気のない出で立ち。Tシャツは「かわいい」という理由で、葉っぱの表皮にある穴「気孔(きこう)」をプリントするほどの熱の入りよう。それもそのはず、研究室では光合成のメカニズムを研究しており、その対象は「葉っぱ」、さらに彼女の研究対象は「シロイヌナズナ」。  本村は藤丸が食事を配達する度に、楽しそうに葉っぱについて語ったり、ときには実験にも参加させるほど仲を深めていきます。そんな植物を愛する本村に、藤丸は恋をしてしまいます。とはいえ、彼女は植物をこよなく愛する女性で一筋縄にはいかない様子。  「植物には、脳も神経もありません。つまり、思考も感情もない。人間が言うところの『愛』という概念がないのです。それでも旺盛に繁殖し、多様な形態を持ち、環境に適応して、地球のあちこちで生きている。(中略)だから私は植物学を選びました。愛のない世界を生きる植物の研究に、すべてを捧げると決めています」(本書より)  作中には、多くの専門的な実験風景も出てきますが、植物学の知識がない人にもわかりやすく書かれており、読者を置いてきぼりにしないのはさすがの一言。果たして藤丸の想いは成就するのか、本書を手に取り恋の結末を確かめてみませんか?
AFTER HOURS――橋本倫史『ドライブイン探訪』
AFTER HOURS――橋本倫史『ドライブイン探訪』 「ロードサイドの風景から戦後のあゆみが見えてくる」とその帯には書かれている。  書籍のタイトルは『ドライブイン探訪』とあり、装丁に使われているドライブインの写真はどこか懐かしいと感じてしまう。でも、この場所のことは知らないのに。なぜかノスタルジーを感じてしまう。どうしてなんだろう。知らない町の、知らない建物の、知らない誰かの、知らない生活の一部、の欠片に惹きつけられてしまう。  『ドライブイン探訪』の著者である橋本倫史さんは1982年生まれの広島県出身のライターであり、この書籍はそもそも彼が自主出版していたリトルプレス『月刊ドライブイン』全12号をもとにして生まれたものだ。橋本さん自身が一人で企画、取材、制作を手がけたものが、筑摩書房から声がかかり一冊にまとまり今回刊行された。リトルプレスの時にも全国の書店員から注目を浴びていたが、商業出版されれば全国の書店にも届くことになる。その際に運搬するのは当然ながらトラックだ。全国のドライブインを取材してまとまった一冊が、その道を辿るであろうトラックで運ばれていく。そのことを想像すると不思議だけど、嬉しい気持ちになっている自分がいた。  戦後になって流通網を整えるために全国で道路が繋がり、日本という国の血流のように全国各地に広がっていった。交通設備が整い、自家用車が一家に一台という時代が来ると、好景気もあって「観光」も盛んになっていった。自家用車で、あるいは観光バスで、高度成長期には大型トラックが全国を駆け巡るようになった。当然ながら、その車が行き交う道路沿いには様々な施設ができることになった。その中でも、食事もできるドライブインは全国のロードサイドにたくさんできた。  新しい時代への期待で商機を見出してドライブインを始めた人もいれば、親族から譲られた土地でなんとなく商売を始めた人もいる。ドライブインの数だけ様々な始まりの経緯がある。そして、現在その多くは潰れてしまっている。時代が変わったからというのがいちばん大きな要因だと言えるだろう。  戦後から74年が経ち、第二次世界大戦で敗戦国になった日本は経済成長を果たし、復興のシンボルとして東京オリンピックを開催して復活を全世界にアピールして先進国になった。そして、「平成」が終わる現在ではアジアにおいてももはや裕福な国ではなくなってしまっている。つまり経済発展はとうの昔に終わっている。かつてそれを支えたのは全国津々浦々に大量生産した均一な商品を運ぶための道路網と車だった。戦後の日本社会を代表する大企業がTOYOTAやHONDAであったのはそのためだ。  20世紀は映像と自動車の世紀だった。そして、21世紀の現在においてはそれらの産業は急速に影響力や経済力を失っている。二度目の東京オリンピックを開催して、かつての幻影を追いかけようとする人たちは現実を見たくない人たちなのだろう。彼らはいまだにロードサイドにできた廃墟を見てみないふりをし続けている。  全国津々浦々のドライブインを橋本さんが訪ねて、お店をやっている方々に話を聞いているこの一冊の中には、ドライブインが隆盛した頃の日本がどんな時代だったのかを教えてくれる。それは「激動」の時代であり、大きな変化が押し寄せてきて、新しい予感に満ち溢れていた。  お店の人に話を聞く橋本さんはできるだけ自分の感情や思いは除いて、店主たちの話を示していく。それはドライブインの歴史であり、そこに居た、居る人の個人史であり、同時にその町の歴史であり、戦後日本社会のあゆみだった。それぞれのドライブインができた経緯から、その店主たちの個人史に話が及んでいく。橋本さんは彼らにそんな話をしてもらえるほどに信用されたのだと思うし、彼らもそんなことを誰かにきちんと聞かれずに淡々と何十年もお店を続けていたのかもしれない。  多くのドライブインはかつてのように観光バスで訪れる人が減ったり交通量の変化だったり、あるいは新しくできた道路によってかつてのような賑わいや忙しさはなくなっている。昔のように観光客は少なくなったが、地元の人に愛されるお店として経営を続けているお店も何件も登場している。そして、どの業種にも現在の日本では言えることだが、後継者問題というものもあり、この本で紹介されているドライブインが何年も先に残っているとは言えないという状況がある。  橋本さんが取材を開始してから、前に行ったことのあるドライブインで話を聞かせてもらおうと考えていたら、そのドライブインがすでに閉店していて話が聞けなかったというケースも何件かあったようだ。だから、今話を聞かなければならないと思った橋本さんの熱意を感じた店主の方々は、店の歴史と自分自身について彼に語ったのだろう。この本に取材して書き留められたドライブインは、その土地の記憶であり、その町の経過であり、そして、ひとりの人間の生き様や人生そのものが収められている。橋本さんが感じたその声色や、店内の匂いや経年変化したもの、そこから見える景色や通り過ぎる車のライト、あるいは雪や川や海の自然の織りなす音と時間による光の変化、が記録されている。きっと、ドライブインとそこで働いている人たちの歴史を感じるから、あたたかさとノスタルジーを読んでいて感じたのだろう。  書き留められた言葉たちは、ドライブインの店主の方々の人生の言葉たちは、この一冊に綴られたことによって残っていくだろう。いつかそのドライブインが消えても、きっと、きっと。 文/碇本学(Twitter : @mamaview)

この人と一緒に考える

富山市の取り組みから見た"暮らしやすく持続可能な地方都市"とは
富山市の取り組みから見た"暮らしやすく持続可能な地方都市"とは ドイツ在住のジャーナリストで環境コンサルタントの村上 敦氏が著書『ドイツのコンパクトシティはなぜ成功するのか ―近距離移動が地方都市を活性化する―』でドイツの例を紹介しながら論じているのは、日本の地方都市が直面している"衰退"の現実を食い止め、活気のある地域に変えていくための都市計画の考え方です。
妻の地雷ポイントを踏まないために... 夫婦の"なぜ?"を行動心理コンサルタントが徹底解説
妻の地雷ポイントを踏まないために... 夫婦の"なぜ?"を行動心理コンサルタントが徹底解説 夫婦といってもそもそもは血のつながっていない赤の他人。そのうえ、男と女は行動も思考もちがう別の生き物。――とくれば、はなから分かり合えるほうが不思議なのかもしれません。常日頃からなぜ妻が怒るのか理解できない、妻の地雷ポイントがわからない、という男性は世の中に多いのではないでしょうか。  妻の地雷の具体例やその理由、さらに解決方法まで、行動心理コンサルタントの鶴田豊和さんがわかりやすく解説してくれるのが本書『"妻の地雷"を踏まない本』です。夫婦で読めばきっと「あ、ウチだけじゃなかった!」と笑って仲良くなれるはず!  たとえば、妻側の愚痴として頻出するのが「明らかに体調が悪いときに、『夕飯どうするの?』と聞いてくる」という問題。「よく口に出して言ってる」「これのどこが悪いの?」と思った男性は危険です! なぜなら女性は「こんなときまで食事の準備をさせるの?」「食事の心配より、私のからだを心配してほしい」と思い、怒りがわくからです。  この原因について、鶴田さんは「夫が妻のシンキングコストを低く見積もりがち」だと指摘します。「考える」という行為には結構な時間と労力が必要ですが、夕飯の準備でいちばん大変なのは「メニューを考える工程」ともいわれていることから、「そのときのシンキングコストは、ひょっとすると上司から『取引先の社長の接待をするから、セッティングを頼む』と言われた時と同程度のものかもしれません」と解説。これなら夕飯の準備がどのぐらいのストレスレベルなのか男性側も想像しやすいですね。  また、妻の中には夕食のメニューも完全に任せられるより、少しでもシンキングコストを節約するために一緒に考えてほしいと思う人もいる。だから、よりによって体調が悪いときに「夕飯どうする?」と夫が聞いてきたら「こんなときまで考えることを丸投げされるわけ?」と思い、怒りがわいてしまうというポイントも加えています。  解決法としては「夫は本来口に出して言わないようなことも、きちんと言葉に出して伝えたほうが良い」としています。料理を作れない状況は百も承知であることを、「何か買ってこようか? それとも簡単にできるものを何か作ろうか?」と聞いてみるといったふうに。  ほかにも「パソコンでプログラミングができるのに、洗濯機は使えない」「たまの妻だけの外出。『何時に帰ってくるの?』と聞く」「『専業主婦=楽』という夫の言動」「ろくに人の話を聞いていない」など妻の地雷例が盛りだくさん。4コマ漫画も付いているので気負わずに読むことができます。  読んでいて感じたのは、夫側だってわざわざ不快にさせたいだなんて思っておらず、悪気はないわけなのですよね。であれば、妻の地雷を踏んでしまうのはお互いにとって残念なこと。言動次第で地雷を回避でき、夫婦関係が円滑に行くのであれば、本書のアドバイスを試してみる価値はあるかもしれません。お互いの理解を深めるために、夫側も妻側も一読してみてはいかがでしょうか。
事件が起きたから幽霊が出るわけじゃない!? ワケあり物件にまつわる不思議な話
事件が起きたから幽霊が出るわけじゃない!? ワケあり物件にまつわる不思議な話 前の住人が自殺・殺人・孤独死・事故などで死んでいる部屋や家のことを指す「事故物件」。普通だったらできれば避けて通りたい物件ではないかと思いますが、そんなワケあり物件を転々としている人がいます。それが松竹芸能所属のピン芸人、松原タニシさん。  きっかけは"事故物件で幽霊を撮影できたらギャラがもらえる"というテレビ番組の企画だったそうですが、それにはじまり大阪、千葉、東京などこれまで6軒の事故物件に住んできたそうです。  本書『事故物件怪談 恐い間取り』は松原さんが生活してきた事故物件での体験談、実際に事故物件に住んでいた人に取材した話、さらには心霊スポットや怪奇現象が起きる"ある意味"事故物件な場所での出来事などを間取り付きで紹介している一冊。小説や映画などフィクションのホラーも怖いものですが、本書の恐ろしさはなんといっても「住む」という私たちの生活に根差したところにある実話だという点ではないでしょうか。  とくに第一章の「僕と事故物件」は実際に松原さんが住んだ事故物件について書かれており、不気味さや不可思議さがリアルさをともなって伝わってきてしみじみ怖い......!  たとえば最初に住んだ、過去に凶悪な殺人事件があったという大阪のマンション。事件は4階で起きたというのに、なぜか1階のフロアが事件後にすべてぶち抜かれ、住人の誰ひとりも自転車を停めていない駐輪場になっているといいます。松原さんの部屋は6階になりましたが、住み始めてからというもの、ニット帽の男性の幽霊(?)を目撃したり、記録のために録画していた映像にオーブが映り込んだり、マンションの前でひき逃げ被害に遭ったりと尋常じゃない事態に。ページをめくりながら「やはりこれは殺人事件の因縁が......?」と思ったものの、そこには予想を上回る驚きと恐怖が待っていました。偶然、同じマンションに昔住んでいたという男性と知り合った松原さん。彼は松原さんがひき逃げに遭ったのと同じ季節に三年連続でひき逃げに遭っており、引っ越してからある日、テレビのニュースを見てそのマンションで殺人事件が起きたことを知ります。つまり、殺人事件の前から奇妙な現象は起きており、「事件が起きたから幽霊が出る」わけではなく、元々"何か"がある場所なのだと考えられるというわけです。  "何か"とは何なのか、ニット帽の男性は誰なのか、なぜ1階が突然駐輪場にされたのか、そこに明瞭なオチも説明もありません。でも、この釈然としないモヤモヤ感がまた実話らしくて恐怖を誘われます。  松原さんは本書の「はじめに」で、「事故物件で起きる不可解な現象がいったい何を意味するのかいまだにわかりませんが、"死"を身近に感じる事故物件に住むことで、奇しくも僕は"生きる"ことについてより考えさせられたのでした」と書いています。本書を読んでも(読んだらなおさら)事故物件に住みたいなんて思えないかもしれませんが、松原さんの体験を疑似体験することで、皆さんも生きている実感を得ることはできるかもしれません。ただし、自宅でひとりで夜中に読むのはそうとうこたえますのでご注意を!
それぞれの生きるスピードと向かう場所へ 絲山秋子『夢も見ずに眠った。』
それぞれの生きるスピードと向かう場所へ 絲山秋子『夢も見ずに眠った。』 会ったこともない人を信用できる人だと思ったことはあるだろうか。普通の人間関係ではそれはあまり起こりえない事柄だ。しかし、創作や表現をしている人や、国境を越えて私的なことではなく公共の利益のために働いている人だったり、スポーツ選手の人たちにはそういうことを感じることがあなたにはないだろうか。一方的にこちらは知っている。しかし、相手はこちらのことなど知る由もない。だけども、「わたし」はその人の発言や行動を知っていて、勝手に信用にたる人だと思う、というようなことが。  わたしは小説を読むのが好きなので、書き手の中にそういう人は何人かいる。小説にしてもエッセイにしても活字になるものは、書き手から顔の見えない不特定多数の読み手への語りだったり、あるいはラブレターや自身の思想を物語や読みやすいものにアウトプットして届けているものだと思っている。だからこそ、読み手はその中にあるものを感じて、この人は信用できると思うのではないだろうか。わたしにとって信用のおける書き手の一人だと勝手に思っているのが、小説家の絲山秋子さんだ。  絲山さんの作品で個人的に大好きなのは、『海の仙人』『末裔』なのだが、やはり絲山作品を読んでいない人には『逃亡くそたわけ』と『離陸』をオススメしたい。わたしがスタッフをしている『monokaki』では以前に、文筆家・編集者の仲俣暁生さん連載『平成小説クロニクル』で「第五回 絲山秋子と吉田修一 地方を舞台とした「アンチ東京小説」のリアリティ」を執筆してもらい、記事を公開している。 https://monokaki.everystar.jp/column/heisei/1149/  ここで書かれているのは、絲山秋子さんや吉田修一さんという二人の小説家は「恋愛小説」のその先を描いているということ、そして、損得勘定を越えて動いてしまう人間の愚かしさや狂おしさ、切なさがあるということだ。そこにはやはり愛おしさも含まれているだろう。今回は『逃亡くそたわけ』と『離陸』の流れにあるような、「恋愛小説」のさらにその先を描いた新作『夢も見ずに踊った。』について紹介したい。 ――――――――――――― 夫の高之を熊谷に残し、札幌へ単身赴任を決めた沙和子。しかし、久々に一緒に過ごそうと落ち合った大津で、再会した夫は鬱の兆候を示していた。高之を心配し治療に専念するよう諭す沙和子だったが、別れて暮らすふたりは次第にすれ違っていき......。ともに歩いた岡山や琵琶湖、お台場や佃島の風景と、かつて高之が訪れた行田や盛岡、遠野の肌合い。そして物語は函館、青梅、横浜、奥出雲――土地の「物語」に導かれたふたりの人生を描く傑作長編。(単行本帯裏より) ――――――――――――― ――――――――――――― 主人公夫婦の家は熊谷。単身で住んだのは札幌、青梅など。 旅をした場所は岡山市、笠岡市、倉敷市、滋賀県全域、川島町(埼玉)、盛岡市、遠野市、東京23区、函館市、江差町、青梅市、奥多摩町、横浜市、松江市、奥出雲町などです。(著者の絲山さんのツイートより) ―――――――――――――  『夢も見ずに踊った。』は夫婦であるふたりの男女の二十五年という長い時間を描いた小説だ。そして、絲山さんのツイートにもあるように、様々な場所や地域が出てくる。  ふたりで行くこともあるし、それぞれがひとりで赴くこともあるし、途中から個別に違う場所へ向かうこともある。夫の高之と妻の沙和子は就職氷河期に大学を卒業した大学生であり、いわゆるロストジェネレーションと呼ばれる世代である。わたしもそのロスジェネ最後尾にいたので彼らの感覚はものすごくわかるし、共感するところが大きかった。  就職氷河期というのは1993年から2005年と定義されている。現在の社会で考えれば中間管理職になっている層がそこにあたるのだが、そもそも就職が困難でありフリーターや派遣社員になるしかなかった人も多い。そのまま年齢が上がって就職ができなかったり、そのままの雇用形態で働いている人も多く存在しているというのが現状だ。  この数年で団塊の世代が定年になって抜けていくという現実があり、近年の大学卒業者の内定率が高くなったのは、羊頭狗肉な「アベノミクス」を吹聴している彼らの政治的な手腕で景気がよくなったからではないことがよくわかる。下の世代からは就職もできなかった人と見下されたり、卑下されてしまうような世代がロスジェネであるということも事実としてある。  会社組織におけるポッカリと空洞のようになってしまっているのがこのロスジェネ世代であり、上と下の世代(わかりやすく言えばインターネットが登場する前のアナログな時代が若い頃にあった世代と生まれた時にはインターネットも携帯やスマホも当たり前のものとしてあった世代)それぞれの中間にいるからこそ、本来であれば、彼らを繋げられるはずだったこの世代が宙ぶらりんになってしまっているように個人的には感じている。もしかすると、その代りとしてインターネットがあるのかもしれない。しかし、検索だけでは人は繋がらないし、どんどん分断は進んでいくだけなのが現実の社会である。  ロスジェネにはかつて社会に対しての「怒り」があったのだが、例えば『「丸山眞男」をひっぱたきたい31歳フリーター。希望は、戦争。』なんかはその代表的だろう。しかし、「怒り」のエネルギーは長期的には持続せず、時代の変化もあるのでどうしても「諦め」に変わっていってしまった。入れ替え可能なフリーターや派遣社員として働いて体調や精神を壊してしまえば、もう金銭的にも精神的も立て直すことはなかなか難しいものになってしまっている。  ゼロ年代初頭のロスジェネのモラトリアムを描いた作品では、漫画では浅野いにお著『ソラニン』、映画では行定勲監督『ロックンロールミシン』、テレビドラマでは岡田惠和脚本『夢のカリフォルニア』などがあり、当時の彼らと時代の雰囲気をうまく描いていた。そして、そのロスジェネに完全にとどめを刺したのがリーマン・ショックだったと言えるだろう。  彼らより上の世代はこのままなんとか逃げ切ろうとしている。正社員経験がなく、フリーターや派遣社員が多く、このままどこにもいけない世代がロスジェネだろう。それより下の世代はリーマン・ショック以降の世界的な不況と日本の構造改革の失敗、ホリエモンの逮捕劇などもあり、自由な働き方やベンチャーをやろうという意欲は一部を除いて削がれており、年功序列で終身雇用を望む保守的人がかなり増えて、昭和の雇用形態を望むような先祖返りのようになっている。それは平成まるごとの不況とグローバリズムによる格差が明確に出てきているために、どうしても安定を望むという作用が出てきているのだろう。だが、その昭和的な雇用形態は「中流」という幻想を多くの人がイメージできるような豊かな時代だったからこそであり、その「中流」という幻想を多くの人がイメージできない時代では、実際のところ難しいものになっている。  これらは小説にはあまり関係ないように感じられるかもしれないが、この物語の主人公のふたりのバックグランドはこういう背景や世代的な感覚がある。だからこそ、沙和子は高之を実家の熊谷に残して、札幌に単身赴任を決めて仕事をしっかりやろうとしたはずだし、彼もそのことを尊重しないといけないと思い、義実家で妻の両親とうまくやっていた。  車でドライブする際にどこを迂回して目的地まで行くかというような小さな選択がたくさん起きる日常の中で、次第に疲れていきやがて心を病んでしまうことは誰にだって充分に起こりうる。また、彼らのように違う場所で生活していくということは、気持ちが当然相手にあったとしても、どこかですれ違ってしまう。そして、言いたいのに言えない言葉や思いだったり、触れたいのに触れられないその寂しさがふたりだけの関係性における決定的な判断を下すことにも繋がっていくだろう。  微細なこころの襞が各地の風景や食べ物や、ドライブで見えるものや体験すること、鉄道の乗り換えやバスの待ち時間だったり、それぞれの名所やふたりが興味ある建物や名所と共に描かれながらこの物語はゆっくりだが確かに進行していく。  このように書くと、なんだロスジェネの中年カップルの労働や生活に関する小説なら自分には関係ないから読まなくてもいいや、って人もいるかもしれない。しかし、考えてみてほしい。今というあまりにも先の見えない時代にモデルとなるような先駆者はいるだろうかということを。  ロスジェネという世代が社会に出た時にはすでにバブルは崩壊して「失われた20年」の只中にあった。ミレニアムを迎えて新世紀であるゼロ年代に入っていき、インターネットだけではなく、スマホも当たり前のものになった。  雇用形態と時代の変化は当然ながら男女における結婚や付き合い、そして出産や子育てにも大きな影響を与えた。『夢も見ずに踊った。』の主人公である高之と沙和子は、上の世代のような夫婦関係や家庭や社会人としてのモデルがいない世代である。当たり前にあったものが崩壊しているのだからモデルなど存在していない。だからこそ、ふたりの関係性は新しい男女の関係性のヒントにもなり、性別を越えて人と人が長い時間をかけてどうやって信頼関係を築くことができるのかということを知れるきっかけになるはずだ。  違う「個」同士が時には寄り添い、時には離れていく。それぞれの生きるスピードは当然ながら違うから。一緒にいれる時もあれば、いれない時もある。そして、一緒だったは ずの向かう方向だって変わっていくかもしれない。  人生という限られた時間の中で、どこにいくのか、誰といるのか、なにをするのか、それらを決めるのは自分だ。大切な誰かといる時の自分と、大切な誰かといない時の自分の生きるスピードは違う。別れた人といつか会うこともあるし、未知の出会いもあるかもしれない、それはどんな風に生きるかという選択の中で起こるということを、高之と沙和子のふたりの関係性と人生の選択から教えてもらえる、そんな信頼できる一冊だった。 文/碇本学(Twitter : @mamaview)
選択肢がありすぎて買物につかれた現代人にモノを売るための方法とは?
選択肢がありすぎて買物につかれた現代人にモノを売るための方法とは? 皆さんは最近、買物をする際に「あー面倒くさい!」と思ったことはないでしょうか? 賢く情報収集しなければいけないというプレッシャー、豊富すぎる商品情報や選択肢、もっと得な商品があったと知る後悔......しまいには比較選択に疲れ果て、何が本当に欲しいものなのかわからなくなる――。あまりに情報が増えすぎ、複雑化した現代において、こんなふうに「買物が面倒だ」というストレスを感じている人は少なくないことと思います。  そんな中で企業が生活者に商品・サービスを選ばれるにはどうすればよいのでしょうか? 今回ご紹介するのは、購買行動起点でのマーケティングを実践・提案する「博報堂買物研究所」による、『なぜ「それ」が買われるのか?』という書籍。本書では、これからは「生活者の選ぶ労力を削減しつつ、その人にとって魅力的な商品/サービスばかりに絞られた<枠>の中から商品を吟味する楽しみを同時に提供する」ことが大事だと提唱。そしてこの仕組みを"「枠づくり」戦略"と名付け、買物に浸かれた現代人にモノを売るための方法を公開しています。  この「枠づくり」戦略ですが、 (1)「これでいい」として選ばれる商品・サービス(積極的妥協) (2)「これがいい」として選ばれる商品・サービス(生活発見を提案する) (3)「これしかない」として選ばれる商品・サービス(消費だけでなく参加できる) の3つの「枠」のどれかに当てはめて考えられるそう。たとえば(1)は「こだわり過ぎない、けれど一定水準のクオリティを担保しているから選べる」という枠づくり。その成功事例のひとつとして「ほけんの窓口」を挙げています。  全国に600店舗以上を構え、約35社の保険商品をあつかっている「ほけんの窓口」では、「ここに相談に来れば、専門知識を持ったスタッフと相談しながら商品をフラットに比較して自分に適した商品を選べる」仕組みになっています。複雑な買物であっても顧客が「これでいい」と納得して選べるまでに「学べる買物」を提供しているというわけです。  続いて(2)は「生活者が明確に言葉にできない生活欲求に対して『生活発見』を提案する」という枠づくり。栃木県内でその名をとどろかせているというサトーカメラはその好例だといいます。  サトーカメラの強さの秘密は写真への興味を生み、育てる販売・接客スタイル。お店では、顧客は写真データを表示するモニターの前に置かれたソファにゆったりと座り、アソシエイトと呼ばれる店舗スタッフと会話をしながら写真を選び、それをプリントして形にするのだとか。このサービスは好評で、これがきっかけとなって、さらに「どうせ撮るならもっと綺麗に思い出を残したい」と高価格な一眼レフカメラなどに興味を持ち始める顧客も多いといいます。これはまさに自分ひとりでは気づけなかった「写真のある生活」の喜びを発見できる「枠づくり」であり、写真のプリントを入り口にさらなるビジネスチャンスを生み出しているといえます。  そして最後に(3)。SNSの登場と普及により、見ず知らずの、けれど同じ好みを持つ人とつながることができる現代。旧来のコミュニティにとらわれない気軽な参加の形が喜ばれ、「消費者自らが参加できる」という枠づくりが生まれているといいます。  その「参加できる」消費を顕在化したもののひとつが「AKB48」。それまでテレビの中の憧れの存在だったアイドルを「会いに行けるアイドル」としてAKB48専用の劇場を作る。投票権を入手し、推しメンに投票するという「AKB選抜総選挙」を実施する。これらはまさに生活者の「参加」型の消費への欲求の高まりをわかりやすく表したものといえるでしょう。  「これしかない」枠を生み出すのは一般的な企業にとっては非常にハードルが高いものですが、成功するための一歩として「生活者が自分の人生の一部を差し出してでも『参加したい、応援したい』と思える企業と生活者との『共通の目標づくり』が必要だ」としています。  ほかにも本書ではさまざまな事例を用いながら、生活者が選ぶための"「枠づくり」戦略"を提案しています。情報は多すぎるのにモノは売れない現代において、新たな時代のマーケティング指南書として参考になるに違いありません。
眺めているだけでも楽しい「クスリ絵」って?
眺めているだけでも楽しい「クスリ絵」って? 体や心に病や不快な症状があれば、ふつうはまず病院に行ったり薬を飲んだりすることでしょう。けれどもし、絵を"見るだけ""触れるだけ"でそれが治るとしたら......? そんな常識破りの研究に長年取り組んできた医師が20年以上もの臨床をベースに開発したのが「クスリ絵」なるもの。  数学や物理学、神聖幾何学、古代文字(カタカムナ)の概念を取り入れた色や形で構成されたパワフルなもので、そのどれもが生命エネルギーの調整や人間本来のもつ自然治癒力、潜在能力などを引き出し、向上させてくれるのだとか。  それにしてもどういう仕組みで絵を見るだけで不調がケアできるんでしょうか? クスリ絵の開発者であり本書『クスリ絵』の著者でもある丸山修寛氏による見立てはこう。不調を引き起こす原因のひとつは、潜在意識に記憶されているあらゆる経験や感情のうちの"負の記憶"が関係しているそう。潜在意識は呼吸や消化吸収、心臓の拍動など生命を維持するための神経システムも司っていますが、負の記憶はこの機能にダメージを与え、消耗させるマイナスのエネルギーだとしています。クスリ絵は潜在意識に生命エネルギーを補い、負の記憶を一掃する働きがあると説明しています。  実際、丸山氏がクスリ絵を治療に活用するようになって、8割以上の患者がその効果を実感しているというから、これが本当なら驚きです。しかも本書ではクスリ絵が部位別にカテゴリ分けされていますが、「頭部・目の不調」「胃腸・膵臓の不調」「首・肩・腰・足の不調」「心の不調」などほぼ全身におよび、さらにそこから詳しい症状別に絵が並んでいます。曼荼羅っぽいもの、幾何学模様を取り入れたもの、古代文字をモチーフにしたものなど非常にバラエティ豊かなデザインで眺めているだけでも楽しめます。  では、効果自体はどれほどまでにあるものなのか。私もためしにやってみることに。肩こりがひどい私は「ハートほっこり。肩や首もリラックス」できるという「ウォーミングハート」というクスリ絵をチョイス。具体的には「否定的な感情を開放」「首や肩の凝りをケア」「気持ちを前向きにする」作用もあるそうです。しばらくじーっと絵を見つめていたところ、プラシーボ効果なのかもしれませんが、こころなしか体がふわっと軽くなったような......。  皆さんも効果を実感できるかどうか。それはぜひ本書を手に取り試してみてください。ただ眺めるだけでも楽しいので、家庭の常備薬(?)的存在として一冊あると心強いかもしれません。

特集special feature

    ある日身近な人が加害者にならないとも限らない...「万引き依存」とは
    ある日身近な人が加害者にならないとも限らない...「万引き依存」とは "万引き"と聞くと、どのような印象を持たれるでしょうか。  カンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞した映画『万引き家族』で描かれるように貧しさゆえに盗む、非行少年がスリルを求めての行為、転売目的のプロ窃盗団の犯行、あるいは「クレプトマニア(窃盗症)」。  または、テレビ番組などで特集されるように、スーパーや大型ショッピングモールで万引きGメン(私服保安員)に取り押さえられ、バックヤードに呼び出された家族が泣き崩れる...といったシーンを思い浮かべる方もいるかもしれません。  メディアでも興味本位で軽く取り上げがちな万引き行為ですが、精神保健福祉士・社会福祉士の斉藤章佳さんは、著書『万引き依存症』で、万引きは決して軽微な犯罪ではなく、物を盗むという窃盗であり、深刻な加害行為であると指摘します。  前著『男が痴漢になる理由』(イースト・プレス刊)で注目を集めた斉藤さんは、依存症への専門治療プログラムを実施する大森榎本クリニックで、DV加害者や性犯罪加害者などの加害者臨床を専門にしています。  同書の中で、やめたくてもやめられず、万引き行為がどんどんエスカレートしてしまう状態は、自分の意思ではコントロール不能な「衝動制御障害」に陥っているのであり、依存症の病態として捉え直すことが必要だと述べています。  彼らに特有なのが「認知の歪み」。たとえば「たまたま魔が差してしまった」「少しぐらい盗っても許される」(同書より)という常套句が示唆するように、身勝手な理由で責任転嫁し、加害者にもかかわらず、まるで自分が被害者かのように捉えていると言います。  斉藤さんによれば、万引き犯には意外にも女性、しかも主婦に多いのだとか。 「臨床の場にいると女性のほうが家族の問題がより顕著に表れていると実感します。それは家庭内では女性のほうが抑圧される傾向にあるからだと思われます」(同書より)  背景には、日本社会に根強い性別役割分業、特に家庭内でのケア労働――ワンオペ育児や家事全般、老親の介護――を女性が担っていることを考察しています。  万引き犯の多くは、世間に流布するような「意志が弱い」「だらしない」性格ではなく、人一倍真面目で責任感があり意志が強い気質の持ち主であり、その反面、追い詰められた時に脆い人々であると言います。孤独や強いストレスにさらされた時の逃げ場を持たず、ストレスから逃れるために万引きという逸脱行為を選択してしまうと分析。  同書では、適切な医療につながれば依存症からの回復は不可能ではないこと、単純な厳罰化だけでは万引きを繰り返す常習者を止めることはできず、再犯防止のための治療プログラムが必須であると訴えています。 「現代人だからこそ陥る病理であり、だからこそ、誰ひとりとして『自分は絶対にならない』とは言えません」(同書より)  ある日突然、家族や友人など周囲の身近な人が加害者にならないとも限らない、万引き依存症。自分には関係ないことと切り捨てるのではなく、社会病理として捉え直す必要があるのではないでしょうか。
    樋口毅宏論・復帰編 樋口毅宏『東京パパ友ラブストーリー』
    樋口毅宏論・復帰編 樋口毅宏『東京パパ友ラブストーリー』 昭和から平成初期にかけてのプロレスをテーマにした『太陽がいっぱい』が小説家として引退作品だった樋口毅宏が帰ってきた! と言いたいところだが、引退前に書いていた『アクシデント・リポート』もその後に出ているし、「小説現代」にも二作ほど短編が掲載されている。実際問題として引退してなくね?と思う樋口ファンもいることだろう。僕もそのうちの一人である。そんなわけで新作が出たのでご紹介です。  「引退」してもすぐに復帰、で引退、復帰とか繰り返すと「小説界の大仁田厚」になってしまうわけだが、プロレスというのは当然ながら一人では成り立たず、相手とファンがあってこそ成り立つショービジネスだ。 しかし、今作『東京パパ友ラブストーリー』は引退発言後に、樋口さんが主夫になってから書いた長編という意味ではまぎれもない復帰作である。内容は以下のようなものだ。 ――――――――――――― パパ友どうしの恋。 ゴーギャンにはなれない、おまえも、俺も。一度きりの人生を、後悔して生きていく。後悔したことさえ忘れて。 有田豪儀と鐘山明人は、同じ保育員に子どもを預けている。とはいえ、豪儀はファンドマネージメントのCEOで多忙を極めているため、朝、娘の亜梨を保育園に送っていくだけ。対して明人は、妻が美砂がタレント議員でこれまた多忙のため、ワンオペ、育児かつ家事全般を請け負っている。 互いに顔見知り程度だったが、ある日、明人はLINEで豪儀を飲みに誘う。「お互いイクメンとして妻の悪口を言い合おうよと」。その晩、ゲイ不倫という地獄の釜の蓋が開いたのだった−−。 これは復讐なのか? 完璧な妻に対して、自分より稼ぐ妻に対しての。 ミソジニー、嫉妬、仕事ができない焦り、不公平感......ゴーギャンになりきれなかった男たちの思いが炸裂し、疾走する! ―――――――――――――  ふたりの父親による、パパ友同士のBLという、これまでの樋口作品からはあまりにも違うもののように感じられるストーリーであり、ドラマ『おっさんずラブ』がヒットしたこともあり、樋口さんもBLに寄せてきたのかと一瞬思わなくもない。 仕事をバリバリできる豪儀と、育児と家事の全てを請け負っている主夫の明人という対照的な二人が友情を育むだけではなく、それを越えてしまうという同性愛不倫が話のメインになっている。 互いに損なわれてしまったものを求め合うような、補うような関係性は男女の恋愛モノだけのものではないし、主婦をしている女性にも明人の主夫として感じていることや家事育児の大変さについて共感する人は多いのではないだろうか。 彼らは家庭では父として夫として役割を担っているが、どこか家族になってしまった妻との関係や、自身の仕事においての力量や将来について感じていることを誰かに伝えたくてもできない。それがたまたま子供が同じ保育園という縁で知り合った年も離れたふたりが飲み友達では終わらずに、同性だが体を重ねてしまうということはどれだけの人が理解できるのだろう?  実際問題として、共感をする人は多いのではないかと読み終わって僕は感じた。そもそも、樋口毅宏引退作品である『太陽がいっぱい』で描かれた昭和プロレスにしても、ホモソーシャルな関係性がある。今作は樋口作品では初のBLというニュアンスだが、彼が描いてきた小説にはどれもホモソーシャルな男性社会が描かれていた。 どヘテロな男性が樋口毅宏作品の主役だったとも言えるだろう。そう考えると新作におけるパパ友の恋はさほど違和感がない、延長線上のようにも思えてくる。また、『おっさんずラブ』のようなBL的な需要とは少しズレているということも感じる。  『東京パパ友ラブストーリー』における樋口作品におけるシスジェンダー男のヘテロが持っている、あるいは所属しているホモソーシャルな関係性と、『おっさんずラブ』をはじめとする所謂腐女子と呼ばれる人たちが好むBL的な関係性や、そのはじまりとしての「花の24年組」の漫画家たちが描いた少年同士の性愛とその身体性、そこからコミケを通じて広まってBLに発展したやおい文化というのは男性同士の性愛を描いていても、受け手の求めるベクトルがそもそも違う質のものであると言えるだろう。  樋口毅宏作品をデビュー作から読んできた者としては、今作が小説家としての「復帰作」と言える。テレビにも出てタレント活動もしている弁護士の奥さんと結婚し、作家を引退してから子供をもうけて主夫をしている樋口さんがこの作品を書かないといけなかったわけを僕なりに考えてみた。  昨今の#me too問題などの女性差別やミソジニーに対してのファミニズムの発言や運動で、男性はそれまで当たり前だったと思っていたものが崩れていると感じている。そんなことをいったらセクハラになるなら女性とは話せないなどという発言もネットで見たり聞いたりもする。そもそも家父長制の中で育ってきた男子が母や姉や妹よりも家の中では偉い存在として扱われてきたこと、あるいは社会に出てからも同じ能力でも女性の方が所得が低かったり、出世が遅れるということが当たり前にあった。もう、そういう時代ではないのでいい加減にそんな意識を変えていかないといけないのは自明のことである。しかし、今まで当たり前だと思ってきたものを急に変えるのはなかなか難しい。 ウォール・ストリートの超高給取りたちですら、女性と話したり飲みにいったりするとどこでセクハラだと言われて、自分のキャリアを失うかもと男同士でつるむのが一番ということになっているというニュースもあった。  妻と子供がいる夫が不倫するのがほかの女性というわけではなく、同性のパパ友であることが、現在の男女関係においてのリアルさに通じている部分が今作にはある。 というのが一般的に考えられるこの作品のBL要素が描かれた理由として考えられるのだと思う。 著者の樋口さん自身も育児エッセイ『おっぱいがほしい』で書いているように、結婚したら妻が変わってしまったとおもしろおかしく書いていて、育児に関しても自分がやっているのがわかる。離婚だ!と喧嘩になるという赤裸々なことも書かれるが、やはり子供は可愛く離れたくないという親心も感じさせる。そういう状況において樋口さんが浮気をするだろうか? チャンスがあればするかもしれないという可能性はないとは言えないが、今作で出てくるふたりの主人公は樋口毅宏という個人であり小説家の部分が半分に分かれて投影されているキャラクターに思えてくる。 つまり豪儀と明人が結ばれるということは、妻以外の女性に手を出せない夫としての樋口さんの半身同士が求めあっている形に見える。自分同士がセックスしているというとニュアンスがわかりづらいかもしれないが、それは再生するために半身同士で再統合しているように思えてくる。 内容説明にある「パパ友どうしの恋」というのは、そのことをうまく示している。恋はひとりでもできるはずだから、しかし、愛にはたどり着かない。愛には他者の存在が必要になってくるからだ。  かつての自分と今の自分をこの先の未来に生かすために再統合させたのだとすれば、この先も小説を書いていくという意思表示になるだろう。だからこそ、この『東京パパ友ラブストーリー』は樋口毅宏復帰作と言えるのではないだろうか。あとはすぐにまた引退と言いださないことを祈るのみだ。 文/碇本学(Twitter : @mamaview)
    転機は小学校時代 稀代の"メモ魔"「SHOWROOM」前田裕二社長が教える「メモ術」
    転機は小学校時代 稀代の"メモ魔"「SHOWROOM」前田裕二社長が教える「メモ術」 アーティストやアイドルなどの配信を無料で視聴できるライブストリーミングサービス、「SHOWROOM(ショールーム)」事業を立ち上げたことで脚光を浴びた起業家・前田裕二さん。  今や時代の寵児として知られる前田さんですが、実はその前半生は過酷なものでした。8歳で母親を亡くし、10歳年上の兄が苦労して育ててくれたこと、兄を喜ばせるために、学習塾にも行かずに必死で勉強し早稲田大学政治経済学部に入学したこと。貧困の中、小学6年生から路上でギターの弾き語りをして、投げ銭で稼いでいたという体験を、ライブ配信サービス「SHOWROOM」設立へとつなげた経緯は、2017年刊行の前著『人生の勝算』(幻冬舎刊)にも詳しく綴られています。  そんな前田さんが、自身が実践しているメモ術を明かしているのが、今回ご紹介する新著『メモの魔力』。365日、驚異的な量のメモを取っている"メモ魔"で有名な前田さんですが、きっかけは小学生時代にあると言います。  もともとノートを取るときに、板書を書き写すだけでなく、自分なりに気付いたことを書き加えたり、シールや色分けで創意工夫したりすることが好きだったそうですが、小学6年次の担任教諭「吉野先生」が、その姿勢を評価してくれた影響が見逃せないと振り返っています。  本書の中では、吉野先生が、前田さんのノート作りに目を留め「みんな、前田くんのノートを見習って!」(本書より)と手放しでほめてくれた思い出を、以下のように述懐。  「今考えれば、僕のノートが本当に優れていたのかどうかは、もはやわかりません。もしかしたら、両親を亡くして、塞ぎ込んで友達もあまりいなかった僕に対して、励ましたいという必死の想いでそんな行動をとってくれたのかもしれません」(本書より)  環境に恵まれなかった幼少期のエピソードを交えつつ、前田さんオリジナルのメモ術メソッドを詰め込んだ本書。日々を漫然と受け身に過ごすのではなく、能動的にメモを取ることで意識を変え、結果的に人生を好転させようという前田さんの起業家スピリッツが横溢した1冊と言えるでしょう。
    積水ハウスなど不動産のプロが騙された"地面師詐欺"の手口に迫る迫真ドキュメント
    積水ハウスなど不動産のプロが騙された"地面師詐欺"の手口に迫る迫真ドキュメント 2018年8月に公表された、積水ハウスが地面師グループから詐欺被害に遭った事件。不動産のプロである大手住宅メーカーが55億円以上もの大金をだまし取られたという衝撃のニュースは、まだ記憶に新しい人も多いのではないでしょうか。  "地面師"とは「他人の土地を自分のもののように偽って第三者に売り渡す詐欺師」(大辞林より)のこと。終戦後の混乱期、そして1980年代後半のバブル経済期に出現したこの「地面師」という詐欺集団が、実は今ふたたび日本中で跋扈しているといいます。彼らは不動産の持ち主になりすまし、勝手に他人の不動産を転売して大儲けしているのだとか。 本書『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』では、積水ハウス事件をはじめ、新橋「白骨死体」事件、アパホテルが騙された「溜池駐車場」事件、台湾華僑になりすました「富ヶ谷事件」など昨今の地面師詐欺事件を紹介しながら、その複雑かつ巧妙な手口や実態を暴いています。  中でもやはりスケール、被害金額ともに群を抜いているのが冒頭でもふれた積水ハウス事件。ある地面師グループが東京・五反田にある老舗旅館「海喜館(うみきかん)」を70億円で売買する契約を積水ハウスと結び、実質的には55億円以上をだまし取ったわけですが、この犯行計画の中心にいた人物が内田マイク、北田文明、カミンスカス(小山)操です。まず内田はなりすまし役の手配師である秋葉を通じて、海老澤佐妃子(旅館の持ち主)のニセ者である羽毛田、その内縁の夫・前野役の常世田を用意。免許証、パスポート、印鑑証明なども偽造したうえで契約を交わしたといいます。本書では内情がさらに詳しく書かれていますが、用意周到で手が込んだやり口には脱帽するばかりです......。  とはいえ、積水ハウスとて日本屈指のディベロッパーであり不動産のプロ。なぜこうもコロッとだまされてしまったのか......。実は今回の地面師グループはほかにも複数の会社に取引を持ちかけていたことがわかっていますが、他社は不審に感じたため契約にいたることはありませんでした。しかし、積水ハウスは「積水は騙されている」という内容の警告文書が送られてきていたり、売買の決済直前になりすまし工作がばれそうになったりがあったにもかかわらず、詐欺を見抜くことができず仕舞い。もちろん積水側は詐欺に遭った被害者ではありますが、本書を読むと、いくつもの落とし穴や杜撰な対応が重なり今回の事件は起きたのだと感じられます。  その後、積水ハウスは会長が責任をとって辞任することとなり、件の地面師グループは現在のところ17人が逮捕されています。しかし、警察の捜査により犯行グループを摘発した事件もある反面、捜査が難航し立件にいたっていないケースや不起訴に終わるケースも多いと作者の森氏は記しています。「地面師事件では、何億、何十億という現金を手にしてきた犯人が間違いなく存在する。しかし、仮に何人かの犯人が捕まっても、肝心の金の行方は杳として知れない。黒幕や頭目が罪に問われることもめったにない」と。事実、積水ハウスがだまし取られた55億円超の金は闇の住人たちの手で分配され、すでに溶けてなくなったとみたほうがいい、としています。  まるで犯罪小説でも読んでいるかのような気分にさせられますが、これらは実際に日本で起きていること。全国の不動産関係者や銀行員、司法書士などはもちろんですが、それ以外の人にとっても必読の一冊といえるかもしれません。なぜなら地面師たちはいつ、私たちや私たち家族の土地を狙っているともわからないのですから。
    やわらかな光のように再生する... 4つの国を舞台にした物語
    やわらかな光のように再生する... 4つの国を舞台にした物語 東ティモール、ラオス、南インド、日本の九州にある南西諸島という、国も環境もそれぞれにまったく違う四つの舞台を物語る小説『うつくしい繭』。タイトルにもなっている表題作は二編目のラオスを舞台にした作品から取られている。  著者である櫻木みわさんは、プロフィールによると大学卒業後にタイの現地出版社に勤務し、日本人向けのフリーペーパーの編集長を務めた。その後、東ティモール、フランス、インドネシアなどに滞在し、帰国後に作家であり思想家・東浩紀氏が代表を務める『ゲンロン』で主催された「ゲンロン 大森望 SF創作講座」を受講。第1回ゲンロンSF新人賞の最終選考に選出され、今作でデビューとなった。という経緯もあり、この単行本には「ゲンロン 大森望 SF創作講座」での課題提出作品などが含まれている。もちろん、単行本化されるにあたり、大幅な加筆改稿がされている。  最初に収録されている東ティモールが舞台の『苦い花と甘い花』を読んでみてほしい。そこには異国であるはずのラオスの空気、暑さや路上に舞う埃、土の暖かさと貧しいものと富めるもの、生きている人々の生活がしっかりとした輪郭で描かれている。  もしかすると、主人公であるアニータが最後に取る行動に驚く人もいるかもしれない。しかし、彼女の行動を誰も否定できないとも思う。同時に、彼女が生まれた時から備わっていた能力もここである変化を見せる。この能力はある種のシャーマン的な能力であり、この異能の力は超能力だったり魔法だと、違う場所では呼ばれるような力でもある。四編にはそのシャーマン的な能力によって繋がっているものがあり、連作短編ではないが、世界観を共有するものとなっている。その世界観を大きな繭と言い換えることもできるかもしれない。    四編それぞれの作品の主人公は女性であり、彼女たちがやわらかな光のように再生する、物語たちだった。  読んでいて非常に心地いいのは、きちんと生活が描かれていることもあるのだろう。それぞれの国において、彼女たちの生活と直結する食事風景やその描写が、生命力や時間に彩りを与えているのもこの小説の素晴らしさのひとつだ。  食べて、飲んで、笑って、泣いて、歩いて、寝て、起きて、朝日が昇って、夜空を星が舞い、同じようで違う日がまた訪れる。その度にわたしたちは実は毎日、再生をしているはずだ。そのためには日々の生活の豊かさを知ることであり、生きる喜びに満ちた衣食住が大切なものとなってくる。しかし、残念ながらわたしたちは日々にこなさないといけないことが多過ぎて忙殺されてしまっている。だからこそ、彼女たちは儀式のように「再生」するために自分を見つめて、日々や自然や時間の豊かさを知ろうとする。あるいは誰かによってそのことを知らされるのである。  繭の中の蚕は品種改良されて、そのほとんどが自由には飛び回ることができないという。長い時間をかけて飛べないように品種改良されたのが現在の蚕たちだ。しかし、飛べる遺伝子を持つものを何代も掛け合わせていくと、繭から出ても飛べるような蚕が現れるようになると聞いたことがある。  収録されている作品の主人公の誰もがそのいわば「美しい繭」の中に入っていく。そして、その中でいつもと同じ肉体を持つ自分でありながら、それまでとは違う自分になって繭から舞い上がる。それはやわらかな光に導かれた再生のように。  櫻木さんはまるで四編目の『夏光結晶』に出てくる「珠」のように、多層な現実、過去、未来、幻想、自然、時間、空間、次元のイメージを読者に喚起させ想像させることができる小説家だと思う。それによって、ひとりの人間の個にある心情風景たちがさざめき、彩りを強くしながら過去から現在にいる自分につながり、未来へ向かわせてくれる。  そう、わたしたちは手を伸ばし、ほんの少しだけ先の未来に触れることができる。
    「ヤバそうだから食べてみよう」!? 辺境旅ではなんでも食べるべし
    「ヤバそうだから食べてみよう」!? 辺境旅ではなんでも食べるべし 本書『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』の著者である高野秀行さんは、「子供の頃から胃腸が弱く、好き嫌いも多かった」と言います。大学探検部の遠征でアフリカのコンゴへ行ったときに食料がなくなり、サルやヘビなどの野生動物を食べることに。それをきっかけに「食の可動域」が広くなったのだとか。  辺境の地に行くと、日本の都市部では見ない料理や酒に出会います。最初は「ヤバそうだけど食べてみよう」と思ったものが、「ヤバそうだから食べてみよう」に変わっていったという高野さん。辺境旅で現地の人に溶け込むためには、同じ生活を送ることが重要。なにを出されても同じものを食べることで一気に溶け込むことができるそうです。  では実際に高野さんはどんなものを食べてきたのでしょうか。まず紹介したいのは前述した大学時代のコンゴへの旅。高野さんたちはここでゴリラの肉を食べることになります。同行していたコンゴ人動物学者が「ゴリラは国際保護動物だ。狩って食べてはいけない」と忠告したにも関わらず......。  というのも、次の日、この動物学者本人がゴリラに襲われ、慌てて銃で射殺してしまいます。村は食糧不足に陥っていたため、それがきっかけで村人によってすぐにゴリラは解体され、塩と唐辛子のみの味付けで煮込まれることに。「クジラの肉がもっと筋張って固くなった」ような、噛んでいると顎が痛くなるほど固い肉だったそうです。  もちろん、辺境メシは日本にも存在します。広島県三次市では郷土料理から発展した「ワニバーガー」が。ワニとは古語で「和邇」と書き、今でいうサメのこと。出雲地方では今でもサメのことを「ワニ」と呼び、「ワニバーガー」を頼むとサメの肉を挟んだハンバーガーが食べられます。  ワニを刺身で食べるとクジラに似ていると高野さんは感じたそうですが、加熱された「ワニバーガー」では一変。がっしりしたクジラとは違い熱に弱く、ほぐれやすい肉になるそう。刺身と「ワニバーガー」の両方が食べられるお店に行けばそのギャップを楽しむことができるでしょう。  他にもペルーでのヘビ料理など、高野さんが体験した様々な辺境メシが本書では楽しめます。ちなみに高野さんは、辺境メシによって胃腸が強くなったわけではないそうで、国内外でよく寝込んでいるのだとか......。それでも知らない食の世界への探求心のほうが強いと語っています。高野さんの興味は世界各地の伝統食品にあるそうなので、またそちらも本として出版されるかもしれないですね。

    カテゴリから探す