地方消滅が危惧される今日、全国から熱い視線を注がれている芸術祭がある。越後妻有(新潟県の十日町市、津南町)で3年に1度開催される「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」には、今や50万人近い来場者がある。過疎化の進む中山間地域で、なぜ芸術祭が立ち上げられ、定着・発展してきたのか。
 はじまりはよくある地域おこしだった。それが関係者たちの思いの化学変化により、どんどん進化していく。
 著者はアートディレクターで、新潟出身ということもあって1990年代からこの地域の芸術祭にかかわってきたが、アートを広い意味で捉えている。アートは、人それぞれ違う個人であるという現実そのものであり、アーティストは歴史の積層を掘り起こし、同時代のささやかな意思を表明し、未来への不安、予感を生理的に表すものではないかと著者はいう。だから表現者だけでなく、スタッフやサポーターとしても「よそ者、若者、バカ者」を巻き込んでいく。地元の歴史や住民へのリスペクトも忘れない。
 この芸術祭では、広い地域に「作品」が点々と置かれ、来訪者が作品と共に地域の景観や地元の人々とも直接触れ合う体感的なイベントとなっている。またアーティストの多くは、けっこう長い期間、地域に身を置いて作品作りを進める。彼らと地元住民の交流は、相互にいい刺激となっている。
 着想の根底には、土地の美しい場所に足を運んでもらう仕掛けを作りたいという気持ちがあった。
 人間関係では行政とのやり取りも興味深い。実際、多くのイベントでネックとなる局面だ。行政は「みんな納得する」「分かりやすい」「無難」なことをやりたがる。「病院のベッドひとつや減反一枚に比べてアートは高すぎる」と発言する地方議員らとやりあいつつ、それでも楽しくイベント作りをする著者の風情が微笑ましい。これがアートの余裕だろうか。心に余裕がないと、人は集まらない。
 人生の悩みは、何らかの「規格」から逸脱してしまうことへの不安が引き起こすものだと思うが、中原は、人々を「規格」に押し込めようとする無言の抑圧にノーを突きつける。だから非常に風通しがいい。ぱーっと読めば、活力に変わる。なんだか、エナジードリンクみたいな一冊だ。

週刊朝日 2015年9月18日号