写真はもっと自由になれる

 自分の形式を手に入れた後、テーマを変えることでいくらでも作品ができるというやり方は、同じ写真を撮っているということなんです。写すものが変わっても。

 自分にとっての写真の魅力は、撮るものを探すためではなく、むしろカメラを持っていない状態で見えてくること、その感覚が生々しく写真に表れたほうが面白いと考えています。

 とはいえ、「写すときにはフレーミングしているんだから、ある種の形式を求めて撮っているんだろう?」と言われることがある。

 でも、100%型を決めて撮る写真があり、その反対にそれが0%の写真があるとすれば、その間にはあらゆる写真が存在し得るわけで、その度合いの差がグラデーションのように広がっている。その中で、できるだけ方法論に頼らないで撮りたいと考えています。

「あるがまま」という言い方が適切かわかりませんが、できるだけそのままを撮ったほうが、その場所の魅力が語れるんじゃないか、と。

 それは場所の説明としての写真ではありません。

 例えば、旅の雑誌でビーチの写真があったとして、それは誰かがそこへ行って撮ったわけですから、ひとりの人間が見た風景です。だけど、旅雑誌の写真としては、撮影者の個人的な経験としての風景では困る。誰がどう見たかは二の次であり、多くの人にとって魅力的に見えるイメージが求められます。

 求められるイメージに沿う写真を提供することは、ひとつの職能だと思いますが、見る人の欲求に応える写真は、いわば撮られる前から決められているようなところがあって、突き詰めて考えていくと、誰が撮っても大差ないことになってしまう。

 でも、そういった役割や機能を写真に求めなければ、写真はもっと自由になれると考えています。

この写真展を通して伝えたいこと。写真を撮ること、選ぶこと

――今回の写真展案内に「『写真を撮ること』と『撮った写真を選ぶこと』は別の作業です」とわざわざ書いています。それを伝えたかったということですか?

 はい。撮影と、撮った写真を選ぶという二つの作業の違いを意識せずに写真を選んでいる人が多く、その結果、作品としてのまとまりが薄れ、あいまいになってしまっている例が多くあると感じています。

 撮った本人には撮影時の苦労や特別な思い出がある場合でも、それが写真に表れているとはかぎりません。にもかかわらず、思い入れや捨てがたい気持ちに引きずられてそれらを選び、写真としての完成度によって選んだ写真に混ぜてしまう。

 選ぶときには撮ったときの気持ちを切り離して、写真になってどう見えるか、ということに注目しなければならない。

 それから、写真を選ぶときに写真の構成上の判断というか、バランスをとって、無難にまとめてしまうことがある。それでは撮ったときの勢いが薄れ、あいまいになってしまいます。

 出来上がった写真を見て、そこでもう一度、被写体と出合うような、そういう選び方をしてもいいんじゃないかと思うんです。

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写真を通して風景に出合い直す