「桂川を渡り臨戦態勢に入る明智軍」桂川を渡ると、光秀は軍勢に具体的な指示を出し、臨戦態勢を整えるように命じた。さらに襲撃する対象が信長であることも伝えられたとみられる。ただし末端の兵士全員までには伝わっていなかったらしく、襲撃対象を徳川家康と混同していた事例も伝わる(CG/成瀬京司)
「桂川を渡り臨戦態勢に入る明智軍」桂川を渡ると、光秀は軍勢に具体的な指示を出し、臨戦態勢を整えるように命じた。さらに襲撃する対象が信長であることも伝えられたとみられる。ただし末端の兵士全員までには伝わっていなかったらしく、襲撃対象を徳川家康と混同していた事例も伝わる(CG/成瀬京司)

 週刊朝日ムック『歴史道Vol.7』では、明智光秀を大特集。天正十年(1582)、武田氏を滅ぼし全国統一も目前となった織田信長。しかし、重臣の柴田勝家、羽柴秀吉らが地方の戦場に身を置くなか、信長の周辺には戦力の空白が生じる。中国増援軍の指揮を命じられた明智光秀が引き起こした、日本史上最大の造反劇の一部を抜粋して紹介する。

【写真】光秀が戦勝祈願を行った愛宕神社がある愛宕山

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■「敵は本能寺にあり!」明智軍、払暁、京へ向かう
 
 明智光秀がどのタイミングで織田信長に対する謀叛を決意したかは難しい問題だが、連歌を詠みながら自分の気持ちを再確認していった彼は、最終的に六月一日夜(あるいは夕刻前)、明智秀満・斎藤利三ら重臣4人(5人との説もあり)に謀叛の計画を打ち明ける。

 光秀から謀計を聞かされた重臣たちは、特に躊躇のそぶりも見せず従う姿勢を示した。特に斎藤利三は後に「今度謀叛随一(今回の謀叛の首謀者)」と評されたように(『言経卿記(ときつねきょうき)』)、企みを主導したとさえ見られている。これは、利三の義理の妹の石谷(いしがい)氏が元親の正室であり、利三が長宗我部氏との交渉の直接窓口になっていた事実からも妥当だろう。四国征伐に危機感を覚えた利三は、むしろ光秀を煽動したのではないだろうか。

 いずれにしても、光秀と重臣たちの意志統一は何ら支障なくスムーズに行われた。『川角太閤記』によれば、申刻(午後4時頃) 麾下(きか)の軍勢の物頭(ものがしら・中堅将校)たちに対し「信長様が閲兵するとの仰せなので、京に向かう」と触れ、丹波亀山城を出陣。一旦中国方面へ向かおうとしてから反転し、酉刻(午後6時頃)亀山東方に至る。おそらく、亀山城下の者から京に明智軍の東進の情報が漏れるのを防ぐためだっただろう。

 軍勢の行動は個人に比べて時間がかかるから、機密保持は重要だ。『信長公記』には「三草越えのところで引き返した」とあるが、この三草越えは亀山から西の篠山に向かう途中にある三草山という交通の要衝の事で、才ノ神峠には何本もの道が集まり北摂津や播磨にも通じていた。あるいは実際に物頭たちに「信長に軍勢を見せると指示が入った」と伝えたのがこの時点とも考えられる。

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