明智軍が丹波と京・鷹ヶ峰ルートで分進する。利三は家来の安田作兵衛(国継)に特命を与えて先行させた。偵察と、信長に急報する者が出るのを予防するために先回りをせよというのだ。これによって、作兵衛は丹波口から京に入るあたりで夜明け前から農作業に出て来る百姓たち二、三十人を口封じのため斬り殺してしまう。
一方、光秀をはじめとする本隊は、空が白み始める頃に桂川まで進んだ。ここで兵たちに「馬の沓(くつ)を切り捨てよ、徒士(かち)・足軽は新しい草鞋や足半(あしなか/かかと部分が無い草鞋。前傾姿勢で機敏に走ったり戦うのに適する)に履き替えよ、鉄砲衆は火縄を一尺五寸(約45センチメートル)に切って点火し、5本ずつ火先を下にして提げよ」と命令が下された。
すべて臨戦態勢に入る事を意味するもので、これではもう「信長様の閲兵」とはごまかせない。「今日から光秀様が天下人になられる。恩賞は望みのままだから、願いを申せ。皆、勇むべし」と謀叛の挙兵が発表され、本能寺・妙覚寺の二カ所が攻撃目標である事も明かされた。
ただ、丹波衆のひとりとして軍勢の中にいた本城惣右衛門(有介)が「信長様に(切)腹させ申す事は、夢とも知り申さず」と証言しているように、光秀の訓令は全軍に行き届いた訳ではないようだ。彼はこの時点で「家康様とばかり存じ候」と、徳川家康が攻撃対象であると思い込んでいた(『本城惣右衛門覚書』)。宣教師フロイスの『日本史』にも「兵士たちは(中略)三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた」と記されている。光秀が家康の饗応役をつとめたことがこの誤情報を生んだのだろう。