「板橋のガスタンク」を背景に疾駆する都電。昭和とともに両者は消え去った(撮影/諸河久:1966年5月28日)
「板橋のガスタンク」を背景に疾駆する都電。昭和とともに両者は消え去った(撮影/諸河久:1966年5月28日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は「板橋のガスタンク」を背景に中山道を走る都電だ。

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 昭和の子どもたちが目を輝かせながら観ていた「ウルトラマン」や「ゴジラ」などの特撮モノ。製作技術が未成熟な時代ながら、精緻な作り込みで子どもはもとより大人の目も釘付けにした特撮の“元祖”ともいうべきシリーズだったが、今から思えば、その特撮に「そういえば、よく登場していたな」と思える建造物がある。ミニチュアの街並みにビジュアル的にも映えた「ガスタンク」だ。

 ほとんどが無機質なデザインだが、街中での存在感は抜群。怪獣に踏み倒されたり蹴られたりと散々な扱いだったが、かつては都内でもあちこちにあった。気づけばあまり見かけることがなくなった。

 写真は、運転最終日の板橋線を志村坂上に向かう18系統の都電とガスタンクだ。1963年12月に廃止された14系統(通称杉並線)に続く廃止路線として、志村・板橋線が俎上に上がっていた。そのこともあって、板橋界隈から志村橋にかけて中仙道を走る都電に、何回かカメラハイクを試みていた。

■都内要所に必要だった整圧所

 この日は遠景まですっきり見渡せる五月晴れの天候だった。沿線随一のランドマークである「板橋のガスタンク」と去りゆく都電をモチーフにして、タクマー200mmF3.5望遠レンズを装着したアサヒペンタックスSVで、今まで撮れなかったガスタンクをサブテーマにした作品を狙った。

現在のほぼ同じ場所に当たる歩道橋から撮影。ガスタンクがなくなっただけでなく、首都高の高架で視界は狭くなっている(撮影/井上和典・AERAdot編集部)
現在のほぼ同じ場所に当たる歩道橋から撮影。ガスタンクがなくなっただけでなく、首都高の高架で視界は狭くなっている(撮影/井上和典・AERAdot編集部)

「板橋のガスタンク」の正式名称は「東京ガス・滝野川整圧所」で、1924年に開所されている。この時代、都市ガスは石炭を原料に砂町や南千住の工場で製造されていた。製造所から高圧で送られてくる都市ガスを減圧・貯蔵するため、都内要所にこのような形態の整圧所が必要だった。砂町、品川、大森、淀橋、南千住にも滝野川と同型のガスタンクが所在した。円形の構築物は専門語で「有水式ガスホルダー」と呼ばれている。ガスホルダーの地下に大きな円形プールが設置され、その上に桶を伏せたように巨大なタンクが乗せられている。都市ガスの貯蔵量に対応して、外側のフレームに支えられたタンクが上下する構造だ。滝野川整圧所のガスホルダーは有水式4層と5層のガスホルダーを併用して稼動していた。現在は球形のガスホルダーが主流になり、旧式となった滝野川整圧所は1986年に廃止されている。

 画面中央奥の中山道(国道17号線)が右にカーブする辺りで、国鉄・赤羽線(現・JR埼京線)を跨線していた。赤羽線から手前が板橋区で、その先が北区になる。撮影時、赤羽線には蒸気機関車が牽く貨物列車が走っており「ときどき聞こえる汽笛が気になって、都電撮影が疎かになった」というファンの話を聞いたことがある。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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