昭和40年3月の路線図。板橋界隈(資料提供/東京都交通局)
昭和40年3月の路線図。板橋界隈(資料提供/東京都交通局)

 板橋界隈の中仙道に路面電車が開通したのは1929年だった。東京市が敷設した板橋線で、巣鴨二丁目(後年巣鴨車庫前に改称)~下板橋(志村線開通時に廃止)約2800mの路線だった。ちなみに、志村線は第二次大戦下の1944年に下板橋~志村(後年志村坂上に改称)約3600mを開業。戦時下の志村線建設工事には沿線住民も動員され、中古レールの再使用など、乏しい資材をやり繰りして建設されたエピソードが残っている。終点志村橋までの約1900mは戦後になった1955年に延伸された。

 当初、板橋線を走った市電は下板橋~日比谷を結ぶ24系統で、1931年に18系統に改番。志村線が延伸された1944年には、同じ18系統の新板橋(後年板橋本町に改称)~神田橋に変更されている。1955年に志村線延伸が完成すると、志村橋~巣鴨車庫前8206mを結ぶ41系統が新設された。

 同時期の志村坂上~神田橋には、戦前と変わらぬ18系統が運転された。この18系統の運転距離は12274mあり、都電の中で最も長い営業距離だった。したがって停留所数も最多の34を数えた。18系統は1966年5月の志村・板橋線(志村橋~巣鴨車庫前)の路線廃止により、41系統とともに廃止された。

■板橋界隈の景観が激変

 威容を誇った板橋のガスタンクが姿を消した1986年、20年前まで都電の走っていた板橋界隈の景観が激変することになる。首都高速中央環状線の王子線が建設されることになったからだ。同年に建設計画された王子線は、首都高速5号線の板橋ジャンクションから飛鳥山トンネルを経由して江北ジャンクションに至る路線だ。往時の電車通りだった中仙道の上空を覆いかぶさるような高架道路方式で建設が進められた。

 王子線が竣工した2002年、板橋界隈からかつての景観が消え去った。自動車交通の利便性と差し違えに失った板橋の景観や風情は二度と戻ってこない。

■撮影:1966年5月28日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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