身内からもそう思われるくらいだからファンもたくさんいて、毎日手紙が200通くらい届いていた。二所ノ関部屋には大鵬さん宛の贈り物やファンレターを保管、仕分けする専用の部屋があったし、それを選別してまとめる役の付け人もいたくらいだ。大鵬さんは北海道出身だから鮭やイクラが好きで、よく贈られてきたけど、どれもコレステロールが高いものばかりだったね……。

 そんな昭和を代表する力道山関、大鵬さんと同じくらい俺がすごいと思うのは、時津風親方の双葉山さんだ。今日ある大相撲の部屋別総当たり戦を考えて実行した人で、双葉山さんがいなかったら、いまでも一門別で見たことのある取り組みばかりだったかもしれないね。

 あの当時、相撲協会の理事は立浪親方(羽黒山)、伊勢ヶ濱親方(照國)、春日野親方(栃錦)といった元横綱たちが顔を揃えていた中で、双葉山さんが部屋別総当たりにしようと言い出して、その面子を賛同させたことは本当にすごいよ。うちの二所ノ関親方も現役時代は大関までいって、大横綱の大鵬さんを育てたという実績があったので理事になっていた。

 俺もお供でついて行くことがあったけど、あまりにもすごい顔ぶれが並んでいるもんで、その部屋にいるだけで息苦しかったよ。北の富士さんの師匠でもある九重親方(千代の山)ですら部屋に入るときは「九重、入ります」と丁寧に言ってから入らなければならないほどだったんだもの。

 当時の理事会の雰囲気は、はっきりいってプロレスの世界とは全然貫禄が違っていたね。やはり伝統の重み、強みがそうさせているんだと思う。どんなに着飾って周りを整えたところで、伝統の重みを背負っている迫力には勝てないよ。歌舞伎役者も市川團十郎といった伝統ある大きな名前を継ぐと箔が付くのと一緒。伝統を背負うプレッシャーがある分、迫力もついてくるんだ。

 当時の理事たちも、その覚悟と自覚を持っていたから迫力があったんだと思うよ。今、相撲界を見渡して当時と比べると、少し軽いなと思うこともあるけど、それを言うと相撲界から「お前がどうのこうの言うんじゃねぇ!」と怒られるか(笑)。最近といっても、俺よりも上の世代の北の富士さんは現役時代からゴルフをしていたし、玉の海さんもボウリングに興じていたりと、そのころから軽くなりつつあったね。昭和44~45(1969~1970)年ころかな。そこが相撲にとっても昭和にとっても時代の転換期だったように思うよ。

 やっぱり俺が昭和を振り返ると相撲の話になってしまうね。俺がプロレスラーに転向したのが昭和51年だけど、平成に入ってからの方が苦労も多かった分、悩んだり、自問自答した思い出が多い。そんな平成の話は次回で!

(構成・高橋ダイスケ)

天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。

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天龍源一郎

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天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。

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