週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から
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 その後城を攻めあぐねた幕府軍は講和交渉を開始。城内の牢人衆の罪を問わないことなどを条件として講和は成立した。直後、幕府軍は城の本丸以外の堀と施設を破壊し埋め立ててしまう。 翌慶長二十年(元和元年=1615)、豊臣家がふたたび謀反を企んでいるとした家康は、秀頼の大和郡山城転居と牢人衆の全員解雇を迫った。これを拒否した豊臣軍は四月二十六日、大和郡山城を焼き討ち。大坂夏の陣が幕を開けた。

 二十九日、樫井の戦いで豊臣軍の先鋒・塙直之が紀伊の浅野長晟隊に敗れ討ち死に。五月六日早朝、国分方面の豊臣軍先鋒・後藤基次はすでに幕府軍が到着しているのを知ると、単独で戦闘を開始。伊達隊の大軍を相手に奮闘のすえ討ち死にを遂げる。続いて到着した薄田兼相隊も潰滅、後続の真田隊・毛利隊は道明寺一帯に布陣し幕府軍を撃退した。しかし、若江では木村重成隊が幕府軍に殲滅され、八尾の長宗我部盛親隊も大坂城に引き揚げ、翌五月七日の決戦となる。 天王寺口・岡山口に布陣した豊臣軍3万5000に対し幕府軍13万以上が総攻撃を開始。毛利勝永の活躍、真田信繁の突撃で一時は家康本陣が脅かされる場面もあったが、兵力で勝る幕府軍が圧倒。大坂城も炎上し、豊臣家は滅亡した。「元和偃武(武器をしまう)」と呼ばれる平和な時代を呼んだ点で、歴史への影響力のポイントは最高レベルである。

■大坂冬の陣・夏の陣(合計点:84点)

【動員兵力】20 【采配力】15 【武器】18 【革新性】14 【歴史への影響力】17

※週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から