大坂冬の陣400年で、上田真田まつり(2014年撮影)
大坂冬の陣400年で、上田真田まつり(2014年撮影)

 桶狭間の戦い、川中島の戦い、備中高松城の戦い――歴史に名を刻んだ戦国の合戦は枚挙にいとまがない。週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』では「戦国の大合戦ランキング」を特集。戦国の期間に関しては異説も多いが、この大合戦ランキングでは、応仁の乱が起こった応仁元年(1467)から「元和偃武」を迎えることとなる慶長二十年(1615)の大坂夏の陣までの約150年間として、その間に起こった大小数多くの合戦のなかから厳選した戦いを、「兵力」「采配力」「武力」「革新性」「歴史への影響力」の5つの基準で採点しランキング化。その上位、ベスト10のなかから歴史を彩った合戦をシリーズで解説する。今回は、3位となった「大坂冬の陣・夏の陣」を紹介しよう。

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 慶長八年(1603)に徳川家康が征夷大将軍に就任した後も徳川―豊臣の間は表面上平穏な関係を保っていたが、慶長十九年(1614)七月、方広寺大仏殿の鐘銘問題が起こると、大仏開眼供養の延期を命ずる徳川家康に対し、豊臣秀頼は最終的に交渉を拒否。家康が十月二日に大坂攻めの号令を発し、大坂冬の陣がはじまる。

 豊臣家の大坂城には真田信繁・長宗我部盛親・後藤基次・明石全登ら牢人武将が続々と入り、堺・尼崎にも派兵。対して家康は十一月十七日摂津に入った。幕府軍の総数は20万、一方の豊臣軍も9万。この数は、小田原城攻めと並ぶ最高レベルで、いうまでもなく兵力のポイントは大きい。

 十九日の木津川口の戦い、二十六日の鴫野・今福の戦い、二十九日の博労淵・上福島・五分一の戦いと、各地で豊臣軍は敗れ、籠城戦に入ると、十二月四日、城の東南方・真田丸へ前田利常隊ら2万6000が攻めかかったが、真田信繁隊5000はこれを引き寄せて反撃し、大打撃を与えた。「真田丸の戦い」である。その後、幕府軍は城内からの火力攻撃を避けるためジグザグの塹壕を仕寄(竹束・土塁など)後方に掘り、またイギリスから買った最新鋭のカルバリン砲を投入するなど、武器の面で高ポイントとなる作戦をとっている。

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歴史への影響力は最高レベル