○地獄の概念の誕生は1000年前
これらの概念が誕生したのが1000年ほど前で、これがあったからこそ鎌倉新仏教は一般大衆に大いに広まっていったとも言えるだろう。仏教の経典には、さまざまな場面で死後の世界についての描写があったが、これをひとつにまとめた「往生要集」を、比叡山で修行していた源信(恵心僧都)が記した。今でも比叡山横川(よかわ)には、源信がこもって著述にあたったお堂・恵心堂が残されている。
○無心の僧・源信の一生
源信が「往生要集」を手掛けるきっかけとなったのは、師である良源(慈慧大師/元三大師)が病に臥したことである。恵心堂は藤原兼家が良源のために建立したものだが、源信はこのお堂に籠り、修行と著述をすることで一生を終えた。藤原道長の帰依を受け、僧位を授かるもすぐに辞退し無役のまま過ごしている。それでも七高僧の一人とされているのは、源信の残した著作がこの先の仏教に与えた影響力の大きさゆえであろうか。
○悪行は地獄行き
源信は、死後に行く世界を明快に整理した。浄土(極楽など苦しみのない世界)や地獄、そのほかの六道という人が死後に転生する世界と、これら世界へ行く因果応報の仕組みを「往生要集」にまとめたのである。「六道十界ノ図」「弥陀来迎ノ図」なども併せて著し、これらの概念が浄土宗、浄土真宗の基礎となった。つまり簡単に言えば、この世で働いた悪行によって人は地獄へ行くよ、という観念へとつながったのである。
○同じ仏教でも違う地獄
そういう意味で言えば、同じ仏教を信仰するとはいえ他国とは死後の世界観は違っているということになる。インドにはえんま大王率いる裁判的な場面は登場しないし、儒教や道教の影響を強く受けた中国では死後の世界よりも現世の名誉を重んじる傾向にある。この世の因果をあまり気にしないのはこのためであろう。ある意味、日本人の持つ独特の処世術というのは、源信の残した因果応報の考え方に根ざしているとも言える。
○死後の世界観が意味するもの
例えば、源信が登場する以前の日本では、死者が生者に災いを起こすものと考えられていて、菅原道真、崇徳院などの怨霊が跋扈していた。人に恨まれるような行いは、現世で報いを受けていたのである。ところが、地獄と死後に行われる制裁が明快となって以降、この世に大きな恨みを持つ怨霊はあまり登場しなくなり、おてんとう様が裁いてくれるに違いない、という観念へと移っていったように思う。この仏教的な観念の持つ意味は大きい。
「天網恢恢 疎にして漏らさず」とは老子の言葉だが、道教ではこの世のことだけに限っていたのかもしれない。日本では、あの世まで続く話として語られる。もし、この日本的な考え方が世界中にあったのなら、ただ人を傷つけるための兵器を使用したり、利益のために他人の苦しみを厭わないなどという人はもっと少なくなるだろう。そして、苦しみながらも人のために尽くした人は、苦しみの全くない世界へと転生できると判ればもっと他人に優しくなれるだろう。
えんまさまが裁いてくれる世界があると、ほとんどの日本人が思っているからこそある平和が、このまま続くことを賽日である今日、特に願いたい。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)