近鉄時代は高卒2年目の99年に5勝を挙げるなど、期待の若手右腕だったが、01年オフ、加藤伸一のFA移籍に際し、プロテクト漏れしたことから、オリックスが人的補償選手に指名。同年は1軍登板がなかったとはいえ、構想外扱いにカチンと来たユウキは「(近鉄を)ボロボロのギッタンギッタンにして見返してやりますよ」とリベンジを誓った。

 翌02年、リリーフで2試合投げたあと、7月31日の西武戦で移籍後初先発を務めたユウキは、3試合目の先発となった8月16日のダイエー戦から破竹の7連勝を記録。この間、8試合で64回2/3を投げ、防御率0.97、被本塁打ゼロと実質エースの内容で、うち6勝が土曜日だったことから、“サタデー・ユウキ”と呼ばれた。

「以前は考え過ぎていた。今は逆に(試合)終盤になるほど攻めの投球ができる」と自信も芽生えたユウキは、9月21日の近鉄戦から3試合連続完投勝利。9月28日、10月5日のロッテ戦はいずれも完封だった。

 07年オフに新井貴浩のFA移籍に際して阪神から広島に移籍した赤松真人もそうだが、環境が変わって花開いた選手が少なくないのも、人的補償の大きな特徴だ。

 時にはFA移籍した選手が、何年か後に人的補償選手として放出される皮肉なめぐり合わせもある。

 第1号は06年オフの巨人・江藤智だ。00年に広島から巨人にFA移籍した江藤は、2度の日本一に貢献したが、同年は打率.172、0本塁打と活躍できず、35歳という年齢もあって、プロテクト漏れ。右の大砲を探していた西武が豊田清の人的補償選手に指名した。

 さらに翌07年には、江藤と同じ00年にダイエーから巨人にFA移籍した工藤公康が、横浜・門倉健の人的補償選手に指名され、2年連続の珍事に。

 いずれも生え抜きの主力や若手を優先的にプロテクトし、選手としてのピークを過ぎたベテランを「リストアップされる可能性は低い」と判断して名簿から外した結果だが、FA時には三顧の礼で迎えたのに、一転人的補償で放出では、ファンにとっても後味が悪かったのも事実。改めてプロテクト枠の28人を選ぶ難しさを痛感させられた。

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ドラマチックな人的補償選手の野球人生