しかし、400石ほどの平蔵が、長く加役を務めるのは経済的にもたいへんだった。せめて小田切の後の大坂町奉行にでも行かなければ「腰が抜ける」だろうともっぱらの評判だった。

■死の床に届いた「ご褒美」

 寛政4年2月頃、平蔵は、いくら職務に出精しても昇進しないことに大いに歎息し、次のように同役などにぼやいたという(『よしの冊子』)。

「まうおれも力がぬけ果てた。しかし越中殿(定信)の御詞が涙のこぼれるほど忝ないから、夫計を力に勤める外には何の目当もない。是ではまう酒計を呑み死ぬであらふ」
(もうおれも力がぬけ果てた。しかし越中殿の御ことばが涙のこぼれるほどありがたいから、それだけを力に勤務に励む以外には何の目的もない。これではもう、酒ばかりを呑んで死ぬことになるだろう)

 自信も能力もあり、さらに精魂こめて役務に勤めても、上司が認めてくれないのはつらいものである。

 ただし、平蔵の耳には、定信が「平蔵ならば」といった言葉が届いていた。軽い気持ちでいった言葉かもしれないが、定信の評価は、平蔵の心の支えになっていたのである。

 上司に頼りにされ、無理をして頑張る部下の奮闘には報いなければならない。その一番の褒賞は昇進だったはずである。

 しかし、平蔵を妬む役人たちは、平蔵のことをあれこれと悪く言っていた。むしろ江戸の庶民のほうが平蔵を素直に評価し、

「あれ程の御人に御褒美御加増も下されぬのはあまりな事だ。公儀(幕府)も能ない。何ぞ御ほうびが有りそふなものだ」

 と噂していた。

 平蔵にようやく褒美が与えられたのは、定信が老中首座の地位を追われた翌年の寛政6年10月29日である。幕府は、平蔵の長年の加役務めの功労を認め、時服(季節ごとに将軍から下賜される服)を賜うた。

 定信は、加役としての平蔵は評価していたが、人物としての平蔵は評価していなかった。銭相場に手を出すなどして「山師」との評判があったからである。

 その定信が引退して、平蔵の運もようやく開けてきたように思えた。ところが、翌寛政7年4月、平蔵は突然病に倒れた。これまで無理を重ねすぎていたのかもしれない。平蔵の病は日に日に重くなり、平蔵危篤の報が将軍家斉の耳にも届いた。

 家斉は、平蔵の危篤を聞き、病状を心配する懇ろな言葉をかけ、家斉自身の常備薬である瓊玉膏を平蔵に分け与えた。将軍のこの破格の扱いに、病床にあった平蔵は、ありがたさのあまりに涙したことであろう。その4日後の5月19日、平蔵は世を去った。享年51であった。