『人事の日本史』(朝日新書)遠山美都男・関幸彦・山本博文著
『人事の日本史』(朝日新書)
遠山美都男・関幸彦・山本博文著

■有能すぎて嫌われる

 町方での平蔵の評判は、非常によかった。加役の仕事については、定信も「平蔵ならば」と言うようになったという。江戸の庶民も、「平蔵様、平蔵様」と平蔵が加役でいることを嬉しがっていた。

 こうした評判を知ってか、平蔵は誰よりも町奉行にふさわしいと自負するようになった。寛政元(1789)年6月頃、平蔵が次のように「高慢」していることが定信の側近水野為長の『よしの冊子』に書き留められている。

「おれは書物も読めず、何にもしらぬ男だが、町奉行の事と加役の事は、生まれ付き身についているほうだ。今の町奉行は何の役にも立たぬ。町奉行はああしたものではない。いか様な悪党があっても、町奉行や他の加役を勤めた者は、その悪党一人しか捕まえないが、おれは根から葉から吟味して捕まえる。それだとてぶったり押したりしてせめはせぬ。自然と出す仕方がある。町奉行のように石を抱かせ、色々の拷問にかけて白状させることはせぬ」

 平蔵は、確かに町奉行への栄転をねらっていた。あるいは父同様、遠国奉行などに昇進し、その後にと思っていたかもしれない。しかし、寛政元年9月、評判のよくない町奉行山村良旺が御三卿清水家の家老に異動した後は、京都町奉行池田長恵が昇進し、平蔵には何の沙汰もなかった。

 寛政3年12月、もう一人の町奉行初鹿野信興が死んで町奉行が空席となった時には、平蔵が下馬評にあがった。平蔵も、今度こそと思ったかもしれない。

 しかし、今度も昇進は見送られ、町奉行には大坂町奉行の小田切直年が昇進してきた。

 平蔵が町奉行になれなかったことについて、

「江戸町奉行は御目付を勤めぬものハならぬ。長谷川ハ決してならぬ」

 と幕閣で評議されたらしい。これについては、「不自由なことを言うものだ。その任にかなう人物なら、何からでも仰せ付けてよさそうなものじゃ」という正当な批判もあった。それに小田切も、知行3000石の大身旗本とはいえ目付は務めていない。

 実は、平蔵はスタンドプレーが多いことなどから幕閣のウケが悪く、目付を務めてないことを口実に町奉行への道を閉ざされたという側面もあると思われる。『よしの冊子』にも、

「総体御役人ハ平蔵をバにくミ候よし(総じて役人は平蔵を憎んでいる)」

 と報告されている。あまりに有能すぎると周囲の反感を買ってしまうのは、理不尽な話ではあるが今も昔も同じである。

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長谷川平蔵の死の床に届いた「ご褒美」とは…