筆者は20年以上前、西武を退団し、通信機器などを扱う販売代理店の社長に就任した羽生田氏を取材しているが、現役時代で最も印象深い出来事として、やはり、この“落球事件”を挙げていた。そして、15年間にわたる現役生活を次のように回想した。

「けがが多かった。西武は素晴らしいプレーヤーがたくさんいて、レギュラーになるのは厳しかった。西武以外のチームだったら、もっと出番があったかもしれないというのは結果論。レギュラーを掴みそうになると、どうしてもけががついて回った。“けがも実力のうち”じゃないけど、たくさんあり過ぎました」。

 そんなけが続きのプロ野球人生を象徴する不運なアクシデントが起きたのが、90年10月12日、川崎球場でのロッテ戦だった。

 渡辺久信と小宮山悟の息詰まる投手戦は0対0の8回、ロッテが四球を足場に3連打で1点を先制。なおも2死満塁で佐藤健一が右邪飛を打ち上げた。

 何とか1点で食い止めたい一心から、羽生田はファウルゾーンで執念のスライディングキャッチを試みたが、捕球に失敗したばかりでなく、コンクリートの壁に左膝をぶつけ、左膝膝蓋骨骨折で全治3カ月の重傷を負ってしまう。

 西武はすでにリーグ優勝を決めており、羽生田は日本シリーズで平野謙との併用が予定されていたが、この大けがで出場不能に……。巨人との頂上決戦で自らの存在を全国にアピールする大きなチャンスを棒に振った羽生田は「ツイてない。こんなことになるなんて……」と落胆するばかりだった。

 膝の負傷を乗り越え、「今年こそレギュラーを」と誓った92年にも不運が襲ってきた。

 自主トレ期間中、北海道深川市で行われた極真空手の荒行に参加したところ、凍傷にかかり、春季キャンプに参加できなくなったのだ。

「勝負の年」になるはずが、同年は24試合出場にとどまり、“トウショウボーイ”というありがたくないニックネームも頂戴した。

 そんな苦難のシーズンにあって、10月4日の日本ハム戦で、4対4の7回2死、河野博文から10年目のプロ1号となる左越え決勝ソロ。初のお立ち台に上がった羽生田は「ファームでも、右(スイッチヒッター)では打ったことはないのに……。信じられない」と感激で声を震わせた。

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控えながらも記憶に残る選手に…