「いつか監督になるだろうとは思っていた。現場取材で来られると、『しっかりやれ』と声をかけていただいた。テレビでの爽やかな星野さんもホンモノで、いつも紳士的で優しかった。ユニフォーム姿とは別人で二重人格みたい(笑)」

 オンオフで別人のような姿を知っている。監督就任時には気合いが入ったという。

「『鬼になる』と言っていたので、厳しくなるのはわかっていた。練習量は信じられないほど増えた。また選手時代とは関係性も変わった。監督と選手の一線を引いた関係というかな。でも細かいところまでよく見ていて、少しでも変化があると声をかけてくれた」

 監督と選手の関係性で忘れられないのは、立浪和義の入団時(88年)。星野から呼び出された宇野は、慣れ親しんだ遊撃手からのコンバートを告げられる。

「立浪が良い選手なのはわかっていた。でも当時の僕は結果を出していたし、『中日の顔』になっていた。キャンプインしてすぐに呼ばれて『今年のチーム方針などだろうな』と思っていたら、まさかのコンバート話。僕の意見を聞くのではなく、『今年の遊撃手は立浪で行くから』という決定事項だった。驚いているヒマもなかったね(笑)」

 前年87年、宇野は30本塁打を放ちベストナインに選ばれていた。立浪は将来を期待されているとはいえ、プロでは実績のない新人だった。

「『お前を使うことに変わりない。二塁手もできるな』ということだった。今考えると、僕の守備に対する信用があったのかもしれない。その場で『やります』と答えた。周囲はどう考えたかわからないが、僕自身の中では不満もなかった。その後も何かあると声をかけてくれたから、星野さんの方が気を使っていたのかもしれない」

 星野は第2次政権となった中日監督を01年限りで退任すると、翌年から低迷が続く名門・阪神の監督に就任する。巨人とともにライバルだった球団だけに混乱も招いた。

「最初は驚いたし寂しい気持ちもあった。我々にも『星野=名古屋』というイメージが強かった。でもやっぱり野球が好きなんだよ。勝負していたい人なんだよ。性格的にも人から頼まれるとイヤとは言えない、面倒見の良い人だから。でもいつかは名古屋に帰ってきて欲しいな、と個人的には思った」

 星野は阪神監督を2年で退任し、同球団SD(シニアディレクター)に就任。その後は北京五輪日本代表監督を経て、11年から楽天監督を務める。13年に同球団そして自身初の日本一に上り詰める。

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野球ではおっかないけど…