「ほとんどの生徒が東大をめざして勉強していたので、東大入試中止が決定されたときは教師も生徒もパニック状態におちいったのですが、東大以外の有名校にズラリと顔を出すことができたのでホッとしました」(同上)

 灘から大阪大27人、神戸大21人、一橋大15人、東京工業大9人の合格者を出した。「有名校にズラリ」と自慢するだけのことはある。

 68年、灘は東京大合格者数で1位になったことが大きな話題になった。新制大学誕生の1949年から67年までトップを続けていた日比谷から、その座を奪ったのである。しかし、69年入試では日比谷が灘を抜いて再び1位に返り咲くだろうと、大学受験関係者のだれもが思っていた。68年に東京大不合格だった日比谷の浪人生が模試の成績優秀者に並んでいたからである。

 灘の教諭もそう思っていたようで、次のように話す。

「ことし東大入試があったら、きっと日比谷が逆転していた。中止になって、うちはハジをかかずにすんだ。日比谷としては雪辱のチャンスをのがして、新制度(学校群)に切替わるわけで、ほんとにお気の毒」(「サンデー毎日」1969年4月6日号)

 庄司薫の芥川賞(1969年上半期)受賞作『赤頭巾ちゃん気をつけて』のなかでは、こんなやりとりがでてくる。

「日比谷のみなさんはお気の毒だと思うのよ。特に薫さんたち。だって去年灘に抜かれたんでしょお? 一人だけだけど。今年こそ首位ダッカンっていうのですごかったんでしょお?」
「いいえ、とりわけどうってことはありません。」
「あら、とぼけてる。だって来年じゃもうだめですもの、ね。学校群ってだめでしょお?」

 1967年、都立高校入試で学校群制度が導入された。受験生は希望する学校ではなく、群という2~3校のグループを受験することになる。これによって優秀な生徒が数校に分散される。それまで日比谷は都内でもっとも優秀な生徒が集まっていた。しかし、学校群制度で優秀な生徒は複数の学校に振りわけられてしまう。または日比谷に行けるかどうかわからないからと、高校から開成、東京教育大学附属駒場に進む者が出てきた。灘の教諭、『赤頭巾ちゃん気をつけて』の登場人物は、そのことに同情したのだろう。

 一方、69年入試のなかには、なにがなんでも東京大に入りたい、という受験生がいた。

 69年秋になると、70年東大入試に備えて、出身高校に成績書を請求する者が見られた。また、予備校の後期編入試験での入学者が増えている。駿台高等予備校(現・駿台予備学校)では、関東出身の京都大生150人が通いはじめたといわれている。1月に行われた模擬試験の成績上位10人のうち、3人は京都大の1年生だった。

 京都大からの再チャレンジ組はどのくらいになるか。再受験には在籍する大学に受験許可を申請する必要がある。京都大への届け出はおよそ60人。法学部は定員の1割にあたる31人、工学部は14人。ほかに経済、教育、文、薬に数人いたという(京都大調べ)。

 東京大入試中止によって、いまでは考えられないような大学受験ドラマが、半世紀前に起こった。

 2021年入試、大きな混乱がないことを祈りたい。

(文/教育ジャーナリスト・小林哲夫