1969年、学生に占拠された東大安田講堂の屋上に向けて機動隊が放水(c)朝日新聞社)
1969年、学生に占拠された東大安田講堂の屋上に向けて機動隊が放水(c)朝日新聞社)
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 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、来年の大学入試の日程が変則的になった。センター試験の後継にあたる大学入学共通テストには、「第2日程」という例年にない試験日が設定された。受験生はどの試験を受けたらいいのか、戸惑うばかりだ。

 だが、日程が揺れ動いても、大学入試が実施されるだけいい。ある年、ある大学では入試が行われなかったのだから。

 1969年、東京大では入試が中止となった。

 1960年代後半、学生運動がもっとも盛んだったころ、東京大では医学部学生処分に端を発した東大闘争が激化し、収拾のメドが立たなかった。長期にわたる闘争で施設が破壊され、講義が休講になるなど、高等教育機関としての体をなしていなかった。

 69年1月18、19日、東京大安田講堂で東大全共闘と機動隊が激しく衝突し、多くの学生が逮捕されている。東京大の状況について文部省(当時)は、「物心が荒廃」しており、すぐには教育、研究機能などの原状回復がむずかしい、入試ができる状況ではないと判断した。こうして東京大の入試中止が決まった。

 もっとも、その前年から政府・自民党サイドから入試中止論が高まっており、文部省は東京大と調整を進めていた。東京大OBでのちに総理大臣をつとめた中曽根康弘はこんな談話を寄せている。

「大学の本質的条件や、社会公共的使命を逸脱してまでも、東大を維持してゆく必要は毛頭ない、入試中止も留年も辞するべきではない」(毎日新聞1969年1月16日)

 東京大は闘争を解決して入試を実施するつもりだったが、政府に押し切られてしまった。

 なお、このとき東京外国語大、東京教育大(現在は筑波大に継承)も学生運動激化を理由に入試中止が議論されていた。東京教育大は中止(体育学部を除く)、東京外国語大は実施することになった。

 では、この年の東京大受験生はどうしたのだろうか。

 難易度が近い京都大、一橋大、東京工業大、東北大などにまわることになった。それは、京都大合格者高校ランキングにおいて如実に示されている。

 日比谷、西、戸山、東京教育大学附属駒場(現・筑波大学附属駒場)、新宿、麻布、開成、湘南の8校(68年の東大合格者上位校)から、69年に京都大に合格したのは213人。前年から178人も増えている。

 これで割を食ってしまったのが、これまでの京都大合格者上位常連校である。大阪府立北野は105人(68年)から86人(69年)に減少した。天王寺は102人から67人、大手前にいたっては81人から42人と、およそ半減した。

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