京都大に本来の東京大受験生が押しかけたことで、京都大の合格最低点がとんでもないことになってしまった。文系学部で合格最低点が68年よりも126~146点(900点満点中)も跳ね上がったのである。文学部=588点→714点、法学部=583点→721点、経済学部=558点→697点、教育学部=556点→702点。68年の合格最高点をとっても、69年では不合格になる学部まであった。もちろん、年によって問題の難易度、受験生のレベルは違うが、合格最低点が100点以上も上がるというのは尋常ではない。

 当時、北野の教頭はこう話している。

「ことしは例年のデータがまったく使いものにならずお手上げの状態でしたが、まさか合格最低点があんなにはね上がるとは予想もしていませんでした。これだけの激戦では二十人ほど減ったのも当然といえば当然ですが、驚きました」(「週刊朝日」1969年4月4日号)

 東京大と京都大の受験生が、すべて京都大に集まったことで「超」難関校になってしまい、例年ならば合格できた受験生が涙をのんでいると、予備校が分析していた。

 京都大教授の会田雄次氏がこう話している。

「まるで重戦車が京都へ突入してきたようなもんですわ。なぐり込み……しかもこのなぐり込みは大成功やったちゅうわけですな。ちょっと前に東京から応援にきたゲバルト学生も強かったが、こんどの受験生も劣らず強かった。のんびりムードに浸っていた京都市民は、東京の進学競争の激烈さにガク然としたでしょうねえ」(同上)

「東京の進学競争の激烈さ」は東北大にも襲いかかった。

 東北大合格者数では、仙台一が166人(68年)から115人(69年)と50人以上も減ってしまった。仙台二も88人から62人と、26人も減っている。その代わりと言っていいものなのか、都立西は3人から29人、日比谷は1人から28人、新宿は4人から27人と増やした。仙台一、仙台二の教諭は「進路指導が十分でなかった」と後悔している。

 68年の東京大合格者数ランキング1位は灘132人、日比谷は131人で2位だった。当然、69年入試ではこの2校から京都大合格者を大量に出している。灘は23人(68年)から75人(69年)、日比谷は9人からなんと42人に増えたのだ。

 当時、灘には東京大受験予定者が約150人おり、このうち108人が京大にまわったという。3年担任教諭がこう話す。

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