ウスビ・サコ京都精華大学長(写真=大学提供)
ウスビ・サコ京都精華大学長(写真=大学提供)

「日本の教育は平等の意味を履き違えている」。こう指摘するのは、アフリカ・マリ共和国出身で京都精華大学学長を務めるウスビ・サコ氏。親や社会が子どもに「普遍的な人間になれ」とプレッシャーをかけた結果、自分なりの価値観を持った子どもが行き場を失ってしまっていると、警鐘を鳴らす。来日して約30年、自らも日本で子育てをしてきたサコ学長が感じる、教育への違和感とは。発売中の書籍『アフリカ出身 サコ学長、日本を語る』(朝日新聞出版)から、一部を抜粋して紹介する。

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 六年間中学生にサッカーを教えていて、不思議だったことがある。

 私は、練習には基礎よりもミニゲームを多く取り入れるのが好きだ。ミニゲームをやると、それぞれの子どもの面白さが出てくる。

 だが、そのやり方を気に入らない親御さんがいる。練習の日に見学に来て、終わると不満そうに私にこう言ってくる。

「基礎をやってくれ」
「うちの子は、まだヘディングはあまりできていない」

 ヘディングができないスター選手はいっぱいいる。それができるだけでもいーじゃん!

 違いがあっていいし、それぞれの違いを組み合わせたところでいいチームができると思っているのだが、そういうやり方は、みなさんお好みではないようだ。

 日本の社会は、どうやら普遍的なものや価値、行動を求めがちであるということはわかってきたが、人間さえも普遍的につくりたいと思っているのだろうか。「普遍的な人間にならないとダメだ」という風潮が、小中学校や高校、そして家庭にもあるように見える。

 そして、普遍的な人間を育てようとする姿勢が、世間体を気にするがゆえであり、内心はそれがいいと思っていないようにも見えるのだ。

 もちろん、日本社会がつくり出しているものではあるけれど、子どもに最も近いはずの親が「普遍的になれ」というプレッシャーを子どもにかけるのだとすれば、親も「普遍的な人間をよしとする社会づくり」の一端を担っていると言えないか。

 子どもが、「もっと自分の個性を伸ばす方向でいきたい」と言ったとしても、親が、「いや、そうじゃない」と、その子を見ないで周りばかりを見ているとすれば、子どもの個性は生かされない。

「あの子はこうだ」
「あの家はこうだ」
「みんながやってるからやりなさい」
「みんな、そうなんだ」

 いかに自分の子を他の子と差がないようにするか。そして、個性よりも、いかに自分の子が上位にいるか、ということを大事に考えてしまうような傾向はないだろうか。

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