わが子を偏差値の高い大学や医学部に進学させたお母さんが、私に耳打ちで報告してきたときは驚いた。

「うちの子、医学部なんです」

 なんで小声やねん! という話である。何かそれが特別なことであるかのような態度で、理解に苦しんだ。医学部に行きたかった子が医学部に行くのなら、別に「よかったね」と思うし、やりたい子がやりたい道に進んだ、というだけのことであるはずなのに。

 日本の教育はダブルスタンダードではないか、ということも、私は問いかけたい。

 表面的には「平等だ」と言っているけれど、平等の意味を履き違え、実際のところは、一部の子たちが拾われていないように見える。

 どんな子かと言えば、自分なりの価値観を持っていたり、自分なりのやり方を持っていたり、形式を重んじたくない子だ。その子たちは、能力がないわけでも、賢さがないわけでもないのに「ダメな子」とされ、拾われない。みんな違って当たり前なのに、実のところは違いが認められていないのではないか。

 地域の小中学校だけではない。受験して偏差値の高い中学や高校に入ったとしても、今度はその学校が育てたいと思っている生徒像や、学校の文化に合っていない子は、認められないことがある。そうなってくると、「子どものための学校」ではなく、「学校のための子ども」である。

 では、拾われなかった子はどう扱われるのかというと、そこにはきちんとしたしくみがなく、認められる文化もない。このため、拾われない子たちは「自分は社会的には役に立たない人間だ」と思い、自分の殻に閉じこもる。

 平等とは、「普遍的な人間をつくること」ではない。それよりも平等な機会をどう与えるかが大事なのに、その機会がない子がいるというのは平等ではないと、私は思う。

 さらに日本の教育は、「目標教育」ではない点で、全く先進的でないと感じている。

 目標教育というのは、「あなたは何になりたいか」あるいは「何をやりたいか」ということに合わせて、その子の将来にとって本当にどういう教育が要るのかを考える。これだけの先進国であれば、本来はそれがあっていいはずなのだ。

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