ありがとう、志村けんさん (C)朝日新聞社
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日本中の子どもたちが笑った
日本中の子どもたちが笑った

 志村けんさんが亡くなった。享年70。死因は、新型コロナウイルス肺炎だ。

【写真】志村さんも治療に使っていたという人工肺「ECMO」がこちら

 すでに芸能界のレジェンドだったこの人にとって、今年はさらなる伝説が加わるはずだった。初の朝ドラ出演となる「エール」(NHK)に、初主演映画「キネマの神様」そして、東京五輪の聖火ランナー……。

 その生前最後のテレビ出演となった番組が「あいつ今何してる? 過去爆笑&涙3時間SP」(テレビ朝日系)だ。3月10日に収録され、感染が公表された25日の夜に放送された。

 志村さんは30代前半の頃、結婚を考えたという13歳下の元恋人との過去を初告白。その女性とは、79年にアイドル歌手としてデビューし、その後、コーラスグループ「AMAZONS」で活動している大滝裕子だ。

 この番組を見ることができた人は、幸せだった。彼の芸人としての偉大さが随所にうかがえたからだ。たとえば、交際中、彼は恋人を連れて、深夜、六本木のレコード店に行ったりしたという。よさそうなレコードを大量買いして、コントに活かせそうな音楽を探すためだ。「ヒゲダンスのテーマ」もそこで見つけられたものだった。

 一緒に海外のショーのビデオを観たりする機会も多かったようで、

「すごくやっぱり、勉強していらっしゃいましたよね。(略)すごい真面目な人っていう感じです」

 と、彼女は振り返る。実際、彼の芸はその才能に加え、職人的な熱心さによって支えられていた。子供時代、教師だった父が校長を目指して勉強ばかりしていた姿をつまらなく感じていたというが、勉強家としての遺伝子はしっかり受け継いでいたのだ。

 そこから数々のヒットギャグが誕生。「最初はグー」でじゃんけんをする習慣の生みの親にもなった。

■面白さと色気を兼ね備えた芸人

 しかし、彼の偉大さはそういうところだけではない。その人気を特別なものにしたのは色気だ。周知の通り、数多くの女性と浮名を流したが、結婚することはなかった。5年前に母を亡くしたときには、

「おふくろは『孫の顔見るまでは死なない』って言ってたんですけれど、僕はこのへんが本当に下手なもんでね。それだけはちょっと残念です」

 と、申し訳なさそうにしていたものだ。そんな志村さんと結婚していたかもしれない彼女は自分との破局後も独身を貫いた元恋人について、こう語った。

「若い人がすごい好きっていう、なんかあるじゃないですか、イメージというか。でも、今でもそうだったら、それでもいいじゃんって。幸せだったら、楽しかったらいいじゃないですか」

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宝泉薫

宝泉薫

1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など

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だれからも愛された不世出の芸人