甲子園での激闘を終えて、グラウンドを見つめる智弁和歌山・高嶋仁監督(当時)(c)朝日新聞社 
甲子園での激闘を終えて、グラウンドを見つめる智弁和歌山・高嶋仁監督(当時)(c)朝日新聞社 

 白いカッターシャツにネクタイ姿での退任会見。“戦闘服”のユニホームを着ていないせいなのか、やっぱり、そのまなざしが甲子園にいるときより優しく映るのは、見ている側の思い込みのせいなのだろうか。

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 2018年8月25日。夏の甲子園が閉幕して、わずか4日後。まだ厳しい夏の日差しが残る和歌山市の智弁和歌山高は、朝からざわついていた。会見場に設定された会議室には50人近い報道陣が詰めかけ、テレビカメラやスチールカメラがずらりとスタンバイしていた。

「高嶋監督勇退についての記者会見」

 高校野球の一監督の去就が、これほどまでに世間の耳目を集める。それが、高嶋仁という名将の魅力を示していると言っても過言ではない。監督通算甲子園103試合、68勝はいずれも歴代トップ。その記録もさることながら、厳しさの中にあふれる選手と高校野球への深い愛情は、甲子園のベンチ前で仁王立ちして戦況を見つめる姿からもひしひしと伝わってくる。高校野球ファンならずとも、高嶋の凜とした姿に“古き親父像”を感じ取り、人々は魅入られてきたのだ。

 高校野球の指導者として48年間。その長きにわたるキャリアの中から、退任会見で高嶋が語ってくれた「4つのエピソード」がある。そこに、監督としての指針、指導者としての信念、勝負師としての心、そして高校野球への愛情がたっぷり詰め込まれていた。

【土佐高の文武両道】

「意識した監督はいますか?」という質問が飛んだ。退任会見で定番の質問だ。中村順司(元PL学園)、渡辺元智(元横浜)、蔦文也(元池田)ら、甲子園での通算勝利数で上位に挙がり、優勝経験のある名将の名が浮かぶところだろう。

 ところが、高嶋の挙げた名前は意外と言っては失礼かもしれないが、強打の智弁和歌山という高嶋が作り上げてきたスタイルからは容易には連想できない名前だった。

「目標にしてきた監督はいます。土佐高校の籠尾監督です」

 1947年(昭和22年)に創部された高知県・土佐高校野球部は県内随一の進学校でありながら、これまで春8回、夏4回の甲子園出場を果たし、準優勝も2回。まさに「文武両道」を地でいく名門校だ。その礎を築いたのが1963年(昭和38年)に就任、30年近くにわたって同校を率いた監督・籠尾良雄(享年68、2002年逝去)だった。

 1966年(昭和41年)のセンバツでは部員12人で甲子園準優勝。攻守交代をはじめ、すべてのプレーで「全力疾走」を怠らないきびきびした姿勢は、当時「大会の花」と称され、その後も「土佐高校=全力疾走」が定着した。

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「四国の名将」との出会い