その「四国の名将」との出会いは、高嶋が奈良・智弁学園のコーチに就任した直後の練習試合でのことだったという。

「コーチだから、試合前でもうろちょろできるじゃないですか。それで、外野の方に行ってね、球拾いをしている部員の子と話をしてたんですわ」

 その“取材”の中から、高嶋は驚くべき告白をいくつも聞かされたのだという。

「君は、どうして土佐に入ったの?」

「ここだと、勉強もできるからです」

 興味を引かれた高嶋は、その部員にあれこれと尋ねてみたのだという。すると土佐高では、寮にOBたちがやって来ると、練習後は現役部員たちに勉強を教えるのだという。

「これが文武両道ですよね。こういう高校が見本だなと」

 土佐高からは東大をはじめ、早慶などの東京六大学、全国の難関大へ野球部員たちも多く進学する。野球と勉強の両立は学生の本分とはいえ、並大抵のことではない。その両方で成果を出し続ける土佐高の選手たちの意識の高さはもちろん、そのモチベーションを維持させていく「籠尾の指導力」に、駆け出しの指導者だった高嶋は感銘したのだ。

 その後、智弁和歌山での高嶋は、野球部員のための「スポーツコース」に1学年10人しか採用してこなかった。(現2年生からは12人)。「そうでないと、選手全員に目がいかん。100人もおったら無理。20人から、多いときで30人。1人でもおらんかったら、すぐ分かる」。

 選手たち一人一人を、責任を持って育て上げる。高校の特性やスタイルによっても、その方法論は変わってくる。高嶋は、籠尾の指導の中にその「理想像」を見いだしていたのだ。

【宇和島東との激闘】

「印象に残っている試合は?」。これも退任会見での“あるある”の質問だ。この答えにも、恐らく、会見に出席していた中でそのシーンが即座に浮かんだ記者はいなかったのではないだろうか。

「たくさんありますけど、和歌山に移って初めて優勝したセンバツ。あのとき、宇和島東とやったんです」

 1994年(平成6年)準々決勝。智弁和歌山は強豪・宇和島東と激突した。その6年前、宇和島東はセンバツ初出場初優勝を果たし、高嶋より1歳年下の上甲正典が率いる「牛鬼打線」と呼ばれた強打のチームだった。

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宇和島東との激闘で得た「教訓」