■監督就任を即断した強い覚悟

 改めて説明の必要もないだろうが、宮本監督は日本サッカー界の将来を担うべきエリート人材として注目されてきた。選手時代は1993年FIFA U-17世界選手権(日本)、1997年FIFAワールドユース選手権(マレーシア)、2000年シドニー五輪と年代別代表を総なめにし、2002年日韓・2006年ドイツの2度のFIFAワールドカップの舞台でキャプテンマークを巻いた。さらに、オーストリア1部のレッドブル・ザルツブルクでプレー経験がある。Jリーグはガンバ大阪とヴィッセル神戸で337試合出場8ゴールという数字を記録。180㎝に満たない小柄なDFがここまで活躍できたのも、傑出したインテリジェンスと戦術眼、統率力によるところが大だった。

 2011年の現役引退後はFIFAマスターを修了。Jリーグ特任理事を務める傍らで、FIFAテクニカル・スタディ・グループの一員として、2014年ブラジルワールドカップの分析に携わった。この時点では「将来の協会会長候補」と思われたが、本人は指導者への意欲を強め、2015年に古巣・ガンバ大阪に復帰。U-13や中学生年代を教えながらJFA公認S級指導者ライセンスを取得した。2016年にガンバ大阪ユース監督に就任し、翌年にはガンバ大阪U-23監督に。1年目のJ3は17チーム中16位を振るわなかったが、長谷川監督(当時)が率いていたトップとの連携が皆無に近い中、トップとユースの両方に選手を取られ、完成度を高められない苦境下で戦ったことを考えるとまずまず健闘したと言っていい。

 ただ、指導者経験3年半というタイミングで名門復活を託されるのは「早すぎる」という見方が大半を占めた。「宮本は将来のJFA幹部、あるいは日本代表監督候補なのだから大事に育てなければいけない」と言う協会関係者もいたが、ガンバ大阪の危機的状況に直面してオファーを断るわけにはいかなかった。本人も「すぐに決断した」と強い覚悟を持ってトップの改革に着手。昨季からU-23で軸に据え、成長を促してきた高、高江、一美らにチーム活性化を託した。

「自分自身は守備を期待されて出してもらっている。前はバランスが悪いと言われていたんで、今は基本ヤットさん(遠藤保仁)がゲームメークをして、自分がリスク管理を意識しています。ヤットさんとも話してますけど、いい距離感でできているし、ハードワークも運動量も出せている」と高が前向きに言えば、一美も「ファーストDFとして激しく行くところはつねに監督に求められてきたし、ハードワークも意識的にやりました」と宮本イズムを出し切ろうと全力を出していた。

 背番号10をつける倉田秋も「若いやつも自覚を持ってプレーしているし、みんなが1つになりつつある」と宮本チルドレンがもたらす効果を実感する。「正直、内容は全然よくないけど、『全試合死ぬ気でやる』っていう雰囲気にはなっている。スタッフも以前一緒にやっていた元選手たちに代わって、言いたいことも自分から言えるし、向こうからも気にせずガンガン言ってくれてるんで、いい関係性はできてます」と強調。この流れを維持して、絶対にJ1残留を果たすつもりだ。

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来季J1で躍進を遂げることができれば…