「ノーサイン野球」がチームの方針でもある常葉大菊川 (c)朝日新聞社
「ノーサイン野球」がチームの方針でもある常葉大菊川 (c)朝日新聞社

 自分たちで考えて、やってみなさい。

 それは若者たちの背中を押し、自主性を促すための本気の言葉なのか。それとも、大人が自らの責任を曖昧にする、いや、回避するための逃げの言葉なのか。

 甲子園では、それが「監督の立ち姿」に象徴されているのではないだろうか。

 春夏3度の全国制覇を果たしている72歳の名将、智弁和歌山(和歌山)の高嶋仁監督が腰に手を当て、身じろぎもせず、ベンチの前に立って戦況を見つめているのは「そこが一番よくグラウンドが見えるんよ」。池田高(徳島)を全国制覇に導いた故・蔦文也監督は、ベンチの前列にどかっと座っていた。スクイズもエンドランのサインも、相手に完全にバレていたとも言われている。それでも、堂々と座っていた。

 裏を返せば、選手たちからも、監督の表情がよく見える。

 怒る。顔をしかめる。笑う。喜ぶ。拍手する。

 “そこにいる監督”の反応に、プレーの手応えは映し出されるものだ。だからその瞬間、私はとっさに、監督の姿を探していた。

 常葉大菊川(静岡)の監督・高橋利和は、三塁側ベンチの真ん中に立っていた。そして、笑顔いっぱいの表情で拍手をしていた。

「彼の判断で走っています。躊躇なく走って、その結果、相手が慌てたんでしょう。本人たちは、一生懸命ですよ。菊川らしい走塁ができましたね」

 試合後のインタビュー。高橋は心から嬉しそうにそう語っていた。選手たちの思い切った、はつらつとしたプレーを称える指揮官の姿に、私は思わず、自分の“決めつけ”を恥じた。あれは、暴走と紙一重じゃないのか? 野球取材に携わって、四半世紀近い時が過ぎ、いつの間にか、どこかしら通ぶって、そう思い込んでいた自分に気づかされた。

 あれは、やってはアカン--。

 セオリーに反する。そう言われるプレーのことだ。しかし、よくよく考えれば、それって、誰が決めたんだ? 野球のセオリーって誰かが本にまとめたり、はたまた、高野連が執筆したパンフレットでも、あるのか?

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記者席で思わず「えっ?」