“安打製造機”といえば、日米通算4367安打を記録したイチロー(鈴木一朗)も、エース・4番だった愛工大名電時代の1991年夏の県大会で打ちに打ちまくった。

 1回戦の知立東戦で4打数3安打1打点、2回戦の名東戦で5打数4安打2打点、3回戦の稲沢東戦で3打数2安打3打点、4回戦の豊明戦、5回戦の名古屋第一戦、準々決勝の中京(現中京大中京)戦と3試合連続で3打数2安打2打点、準決勝の滝戦も4打数3安打5打点。準決勝までの7試合で、25打数18安打17打点3本塁打13盗塁の打率7割2分という驚嘆すべき成績だった。

 だが、3季連続の甲子園出場がかかった決勝の東邦戦では、この7割超の高打率が結果的にアダとなった。

 1回表、名電は四球とバント安打で無死一、二塁のチャンス。通常なら次打者の深谷篤主将に送らせて1死二、三塁で4番・イチローのバットに期待をかけるところだが、そうなった場合、満塁策で敬遠されるのは目に見えていた。

 そこで中村豪監督は「3番が勝負どころ」と考え、深谷にカウント1-2からエンドランのサインを出した。しかし、結果は空振り三振と三塁タッチアウトで併殺という最悪の形となり、2死二塁でイチローは敬遠。次打者も中飛に倒れ、絶好の先制機を逃してしまった。

 これに対し、東邦打線は連投のイチローに代わって先発した2年生投手に襲いかかり、1、2回で一挙7得点。大差がついたことから、東邦バッテリーは2打席目以降、イチローと勝負してきたが、4回無死一塁でまさかの二ゴロ併殺打。「1年生投手(水谷完)だったので力んでしまった」(イチロー)

 結局この日は3打数無安打。「負けるときは僕がヒットを打てなかったときと思っていた」の言葉どおり、名電は0対7で敗れ、28打数18安打の打率6割4分2厘の成績とともに、イチローの高校野球は終わった。

 前田、イチローを超える高打率をマークしたのが、盛岡中央の捕手・宇部銀次(現楽天・銀次)だ。

 2005年の岩手県大会、ノーシードながら強打者揃いの盛岡中央は、1年のときから主軸を打つ1番・銀次が全試合でマルチ安打以上を記録する大活躍を見せ、決勝まで勝ち進んだ。

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高校時代から際立っていた銀次の打撃技術