2018年シーズンが開幕して1カ月半以上が経ち、贔屓チームの結果をチェックするのが日課となった今日この頃だが、懐かしいプロ野球のニュースも求める方も少なくない。こうした要望にお応えすべく、「プロ野球B級ニュース事件簿」シリーズ(日刊スポーツ出版)の著者であるライターの久保田龍雄氏に、80~90年代の“B級ニュース”を振り返ってもらった。今回は「ヒョウタンから駒の快挙編」だ。
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槙原寛己(巨人)が史上15人目となる完全試合を達成したのは、1994年5月18日の広島戦(福岡ドーム)。巨人の球団創設以来の公式戦、7000試合目という節目のゲームでの快挙でもあった。
内訳は投球数102、三振7、内野ゴロ11、内野フライ6、外野フライ3。
「3回ごろから(四球がひとつもなかったので)意識した。なんか夢の中にいるみたいでした。ピッチャーをやっていて良かった」(槙原)
前年オフ、他球団への移籍を希望してFA宣言したが、長嶋茂雄監督から背番号にちなんだ17本のバラの花束を贈られ、その熱意に打たれて残留を決意したといういきさつもあって、翌日の新聞は「17本のバラに恩返し」の見出しをつけ、美談として報じた。
ところが、実はこの快挙の舞台裏には、次のような切羽詰まった事情があったことが判明する。
試合の2日前(5月16日)、福岡入りした槙原は、年に一度の福岡遠征という高揚気分も手伝って門限破りをしてしまい、マネージャーから罰金と外出禁止1カ月を言い渡された。
罰金はすぐ払ったものの、外出禁止は痛い。そこで「何とかなりませんか?」と平身低頭お願いすると、「プロだったら、マウンドで答えを出せ」と広島戦で勝利投手になるという交換条件を突きつけられた。
そんなわけで、何としても外出禁止を免除してもらおうと「必死に投げた」結果が完全試合という最高の結果をもたらしたばかりでなく、球団からの臨時ボーナス300万円(推定)も手にした。
まさに「ヒョウタンから駒」の快挙だが、同年、槙原は12勝を挙げ、長嶋巨人初の日本一の立役者にもなった。