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徳川慶喜の悲劇と寛永寺が江戸で唯一の流血の場となった最大の理由

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徳川綱吉霊廟(れいびょう)勅額門

徳川綱吉霊廟(れいびょう)勅額門

寛永寺旧本坊表門

寛永寺旧本坊表門

谷中霊園内の徳川慶喜のお墓

谷中霊園内の徳川慶喜のお墓

 上野にある寛永寺は、江戸徳川幕府を象徴するお寺であることに間違いはない。徳川家康が幕府を開いた際、江戸の町を堅固にすべく、さまざまな土木工事を行ったが、その中のひとつとして、京都の町に比肩する吉相な土地にするというものがあった。そのために作られたのが、京都の町の鬼門封じであった「比叡山 延暦寺」と同様の意味を持たせた「東叡山 寛永寺」である。

【谷中霊園内の徳川慶喜のお墓はこちら】

●寛永寺が寛永寺である理由

 山名の示す通り「東叡山」は東の比叡山を指し、寺名の「寛永寺」も、延暦7(788)年に創建されたことから「延暦寺」の号を得たことに倣い、創建年の寛永2(1625)年の号を冠している。幕府から大名並みの約1万2000石を拝領し、間口45メートル、高さ32メートルという壮大な根本中堂も建立された。

 もちろん、今もいくつかのお堂とともに寛永寺は存在しているが、江戸幕府の終焉とともに絢爛を極めた建築物は壊滅的な打撃を受け、一時は廃寺に近い状態に追い込まれている。

●寛永寺の悲劇の始まり

 それほどまでの衰退を見せたのは、寛永寺が幕府と密接に関係していたためでもある。歴代将軍15人のうち6人(4代・家綱、5代・綱吉、8代・吉宗、10代・家治、11代・家斉、13代・家定)は寛永寺にお墓があり(家康・家光は日光、残り6人は増上寺)、最盛期には現在の上野公園の2倍の広さを有していたという。

 慶応2年12月に将軍となった徳川慶喜は、翌3年12月に王政復古の政変で将軍職を失い、明けて慶応4年の1月3日(新暦1月27日)に勃発した鳥羽・伏見の戦いの最中、大坂城を抜け出して江戸城へ逃げ帰るという、大将として考えられない行動を見せた。

●江戸で唯一の流血の場

 新政府軍から追討令が出されると、慶喜は即座に江戸城を勝海舟に任せ、寛永寺で謹慎を始める。この慶喜の元へ抗戦派の幕臣たちが集まり、その数2千とも3千とも言われるようになる頃、錦の御旗を掲げた新政府軍が江戸城に進軍、やがて無血開城で徳川幕府は最後の砦を失うのである。

 慶喜は、江戸城が明け渡されたその日、寛永寺を後に水戸へ謹慎の場を移す。しかし、寛永寺に集まった幕臣たちはそのまま彰義隊を結成し、徹底抗戦へと傾倒していった。慶喜がいなくなって1カ月後、ついに上野で戦争が始まった。とはいえ、幕臣たちと新政府軍の装備には差が大きく、戦闘はわずか半日、この日の戦闘で寛永寺のほとんどの伽藍(がらん)は焼け落ちてしまったのである。


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