今にして思えば、子どもが鬼だったわけではない。そう感じた自分の心の中にこそ鬼がいたのだ。体のしんどさでさいなまれた心に、鬼はそっと忍び寄る。目の前の幸せを、幸せと当たり前に感じられるためには、近づいてくる鬼に早く気づき、自分が内側から食い破られ、飲み込まれる大きさまで育つのを防ぐしかない。



●毎日30粒の薬を3食にわけて飲む

 点滴を受けるのは抗がん剤が約10日にいっぺんで、14時間にわたる栄養剤が週2回のペースだ。毎朝、痛み止めなど2種類のテープを張り替える。さらに30粒の薬を3食にわけて飲む。

 そのうち11粒を配偶者が小皿にあけるカチンカチンという音が、私にとっての朝だ。

 夏真っ盛りのころであれば、日が昇るのを待ちきれないように、あたりでセミが鳴きはじめる。近所の神社のそばを通ると、大合唱に全身を包まれる。うるさい、と身をこわばらせることはない。短い一生を終える前の荘厳な営みと思えるうちは大丈夫だ、と思う。

「鳴け、鳴け」。思いに応えるように、鳴き声が背中から追いかけてくる。
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野上祐

野上祐

野上祐(のがみ・ゆう)/1972年生まれ。96年に朝日新聞に入り、仙台支局、沼津支局、名古屋社会部を経て政治部に。福島総局で次長(デスク)として働いていた2016年1月、がんの疑いを指摘され、翌月手術。現在は闘病中

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