タクシーで帰ろうかとも思ったが、乗り場までの1分間を歩く気力がどうしてもわかない。どうしようかと考えていたとき、ベビーカーを押した家族づれが目の前に現れた。エレベーターを待つ間、男の子が甘えるように声を上げだした。それを父親がかまう。幸せを絵に描いたような風景だ。



 ところがなぜか、その声が耳に突き刺さった。そこを離れられればいいが、体が動かない。丸めた背中の先で、無邪気にはしゃぎ続ける子どもが、無頓着に人を傷つける小さな鬼のように思えた。

「いなくなれ。とにかく早く目の前からいなくなれ」

エレベーターがやってきて親子連れが乗り込むまで、ひたすら念じ続けた。しかも、もっとひどい言葉で。

 抗がん剤の副作用がたまたまそのように現れたのかとも想像したが、原因はわからない。幸い、そうしたできごとはこれきりだ。もちろん、近所の赤ん坊の夜泣きや通学する子どもたちのはしゃぎ声をうるさく感じることはあるけれど、憎しみまでは覚えない。
次のページ